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指宿の民俗芸能(みんぞくげいのう)
祝いや祭事で踊られてきた昔ながらの民俗芸能が、指宿にも伝えられています。指宿の民俗芸能は、服装(ふくそう)やふりがはれやかで、江戸時代ごろの芸能の特徴をよく残していると言われています。



棒踊(田之畑・新西方・岩本地区)
棒踊りは、田植え前後の豊作を祈る踊りと伝えられていますが,その後,神社の祭りやいろいろな行事でも踊られるようになりました。また、一説には、島津義弘(しまづよしひろ)ひきいる薩摩との朝鮮半島と戦いの後,その帰国祝いとして始まったとも言われています。派手(はで)な服装の15、6人の男性が入り乱れて打合う技術的にも難しい剣劇(けんげき)です。

田之畑

新西方

岩本


唐人踊(中小路地区・宮之前地区)
江戸時代、薩摩藩は、琉球(りゅうきゅう=沖縄県)に貢物(みつぎもの)を納めさせていました。その際,次の船が琉球から来るまで、人質として鹿児島に残された人々がいたと言われています。唐人踊は、これら人々が指宿にやってきて、唄い踊ったものだと伝えられています。中小路地区のものは、ゆかたに帯をしめて琉球踊りによく似ています。宮之前地区のものは笛が使われて、ゆったりと踊る人情味(にんじょうみ)豊かな踊りです。

宮之前

中小路



宮之前
ごちょう踊(中川地区)
ごちょう踊りは、祝いごとやお祭りなどで昔から踊られていたもので、その由来(ゆらい)ははっきりとわかりません。鬼神面(きしんめん)をつけた踊り手や菅笠(すげがさ)をかぶり女装(じょそう)した踊り手達が、大小8個の鐘と大小2個の太鼓が打ち鳴らすリズムに合わせて大きな振りで踊ります。



さまふり
さまふり(高野原地区)
さまふりは、島津氏が参勤交代を無事に終え、鹿児島へ帰る旅路の疲れをいやすため唄い踊ったものにちなんで始められたと伝えられています。唄は上品な曲調で、調子が長く変化の大きいところに特徴があります。唄の調子や服装など、坂田踊とよく似ています



坂田踊

坂田踊(宮地区)
坂田踊は、江戸時代、島津氏が参勤交代(さんきんこうたい)で江戸に行く途中、旅の疲れや退屈をしのぐために唄い踊ったものにちなんで始められたと伝えられています。唄は上品で踊りとよく調和がとれています。大ぶりの動作と上品な服装があいまった優雅(ゆうが)な芸能です。



虚無僧踊

虚無僧踊(こむそうおどり)(下里地区)
虚無僧踊りは、虚無僧姿の踊り手の両側に、長刀(なぎなた)と鎌をもった武士にふんした踊り手がならび、互いに向き合って打ち合う変化の多い踊りです。きびきびとした踊りの中で、白い虚無僧の姿がひときわ引き立つのが特徴です。



庄五郎踊

庄五郎踊(石嶺地区)
室町時代、池田湖の東にあった清見城の城主池田信濃守(いけだしなののかみ)は、肝属氏(きもつきし)に攻められましたが、よく戦い城を守りぬきました。城を守りぬいたお祝いの席で、庄五郎という芸達者(げいたっしゃ)な武士が、殿様の前でおもしろく踊ったのが庄五郎踊の始まりと言われています。紅白の長い鉢巻(はちまき)をなびかせながら、唄に合わせて踊る手踊りの一つです。




ちょいのちょい

ちょいのちょい(小牧地区)
第17代島津家藩主島津義弘(しまづよしひろ)が朝鮮半島との戦い後,帰国祝いとして始めたと伝えられ、今でも祝い事やイベントの時に踊られています。唄は戦国時代の武士にふさわしい,勇ましい曲調が感じられる内容です。棒踊のように打ち合わず,二人一組で身ぶり,手ぶりを交えて踊るのが特色です。




奴踊

奴踊(やっこおどり)(玉利地区)
奴踊りは、第16代島津家当主島津義久(しまづよしひさ)が肥前国島原城主(ひぜんのくにしまばらじょうしゅ)との戦で勝利し、その祝いとして、揖宿神社に奉納(ほうのう)されたのが始まりと伝えられています。14、5名の男踊りで、きびきびした動きの中にもユーモアを交え、薩摩武士の心意気をよく表現しています。