藤原伊織『雪が降る』講談社文庫 2001年

 「だれだって,なにかを手にいれればなにかを失う。そういうことなんだろう」(本書「銀の塩」より)

 6編をおさめた短編集です。
 うち3編には,共通したモチーフがあります。それは「過去と向き合う主人公」です。たとえば「台風」では,主人公の吉井の眼前で起こった傷害事件が,少年の頃に遭遇した殺人事件を彼に思い出させます。「大事なもの」を奪われた男が,奪った相手を刺すという悲劇,その悲劇をとどめることのできなかった人間の後悔を,淡々とした文章で描き出しています。しかしそれは同時に,かつて主人公が持っていたもの−「胸をはり,風の中,頭をあげ歩いていこう」−を取り戻すきっかけにもなっています。また,最後に主人公の妻の名前が明かされることで,「過去」と「現在」とが結びつき,描かれることはありませんが,主人公の背負ってきたであろう複雑微妙な「苦み」のようなものが立ち現れてくるところ巧いですね。
 また表題作「雪が降る」は,主人公の元に友人の息子から送られて来た,「母を殺したのは,あなたですね」という一通のミステリアスなメールからはじまります。そして主人公は,その息子に過去を語ります。隠すことも,偽ることもなく,自分と少年の母親との「関係」を語ります。少年に対する誠実さは,じつは自分自身に対する誠実さでもあります。主人公の友人でもあり,少年の父親でもある男との,どこか「戦友」という言葉を連想させるような心の通い合いは,主人公が心の内に隠し持ってきた後悔を昇華させる,美しいエンディングと言えましょう。
 「ダリアの夏」の主人公は,野球選手としての夢を絶たれ,30歳を過ぎてもフリーター生活を送っています。エキセントリックな元女優,ややボケはじめた元大物男優で彼女の夫,彼女に粘液質な想いを寄せる少年野球のコーチといった,ずれと歪みを持った人間関係の姿は,おそらく直接は描かれていないものの,主人公の内のわだかまりそのもののように思えてなりません。主人公の胸をたたきながらの元女優の慟哭もまた,彼自身のものなのでしょう。その中で,元女優の息子のセリフ−「好きだもの。ぼく,下手だけど,野球はほんとうに好きだもの」−と,それに対する主人公の答え−「そうか。えらいな,きみは」−は,暗雲の中に差し込んだ陽光のような暖かさに満ちています。
 いずれの作品も,けっして甘くはない,ときに悲劇とさえ呼べそうな苦い辛い「生」を描きながらも,その「生」に真摯に向き合い,乗り越えていく主人公たちの姿は,雄々しく,また清々しくもあります。

 「銀の塩」は,避暑地を舞台にして,主人公の“私”と,不法滞在中のバングラデシュ人の青年ショヘルが巻き込まれる犯罪を描いています。この作品では2種類のお金が出てきます。ひとつは「株」=マネー・ゲームにおいてやりとりされる金,そしてもうひとつはショヘルが貯めた金。片や億単位で取り引きされ,片やわずか500万円。両者のコントラストを描くことで,日本と日本人が失ったものを浮き彫りにしているように思われます。
 「トマト」は,「人魚」を名乗る少女との一瞬の邂逅を描いた奇妙な手触りの作品です。なんだか村上春樹の掌編を連想させます。でも,なんで「トマト」なんだ?
 「紅の樹」では,2年半前,人を撃って暴力団から逃げ出した主人公が,偶然知り合った母娘を助けようと命をかけます。高倉健でも出てきそうな,往年の「任侠映画」を彷彿させる展開です。定型と言えば定型ですが,連れ去られた母親を必死になって捜すシーンなど,緊迫感にあふれています。個人的には,主人公よりも,遠山のキャラクタの方がかっこよかったですね。

01/07/22読了

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