中井紀夫『山の上の交響楽』ハヤカワ文庫 1989年

 この作者の作品は初見です(だと思います,少々記憶あやふや<いつものこと!)。
 奇想天外で愉快な話,しみじみとさせる話,ちょっと不気味な話,ハートウォームな話,などなど,いずれもファンタジィ色豊かな中短編6編を収録しています。

「忘れえぬ人」
 ヨネマツ爺さんはただひとつどうしても忘れられないことがあって,九十を過ぎてもまだ死ねずにいた…
 歩んできた人生のすべてを忘れないと死ねないという世界のお話。よく「あの世まで金を持っていけるわけでもないだろうに」とは言いますが,それでもこの世は「獲得」こそが至上の価値のように考えられているところがあります。しかし,この作品で描かれている世界では,「忘れること」「なくすこと」がとても大切なことです。そんな,現実とはちょっと“ずれている”にも関わらず,この作品の登場人物たちの生き方(死に方?)に,どこか共感をおぼえるのは,仏教的世界観に通じるものがあるからなのかもしれません。
「見果てぬ風」
 両側を高い壁に挟まれた“世界”。テンズリは,壁の途切れるところまで旅立つ。壁の途切れたところで吹いているという風を見に…
 人生はときに旅に喩えられます。人生という時間移動を,旅という空間移動に置き換えた比喩です。この作品は,その比喩を,作品世界の設定そのものにしてしまったような感があります。ここでは「歴史」そのものが「空間」,螺旋状に渦を巻く“世界”に置き換えられています。中学の頃,「古文」の授業で,松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭に触れて以来,わたしの中には,この作品の主人公テンズリのような生き方に憧憬を感じる部分が根強くあるようです。
「山の上の交響楽」
 天才作曲家が書いた,演奏に1万年かかると言われる,長大な交響楽を演奏し続ける山頂交響楽団。彼らはいよいよ最大の難所「八百人楽章」にさしかかろうとしていた…
 この作者は,長大な時間,広大な空間を,所与の設定として物語を描くのが好きなようです。しかし,その中で生きるキャラクタたちは,わたしたちと同じように感じ,同じように悩み,同じように生きていきます。とくに作中人物の発する「なぜ演奏するのか」という問いは,わたしたちがときとして思う,ある問にきっとよく似ているのでしょう。だからこそ,どんなに奇抜な設定でも,わたしたちは,そこに描かれる“物語”に共感できるのだと思います。
 なお本短編は,星雲賞を受賞しています。
「昼寝をしているよ」
 「彼は元気?」「昼寝をしているよ」…小説を書くために,“ぼく”が逗留していた町では,そんな日常の挨拶が取り交わされていた…
 “パラレルワールドもの”のSFには,甘酸っぱくせつない作品がしばしば見受けられますが,この作品も,そんな系列のひとつなのでしょう。なかなか思うように小説が書けない主人公の焦りと,“入れ替わった”町の人々の活気とのギャップが,もの哀しくせつない雰囲気を巧く醸しだしています。
「駅は遠い」
 二日酔いで寝坊した朝,恋人との待ち合わせ場所に急ごうとするが,身体が思うように動かず…
 ユーモラスでいて,ブラックな味わいもある作品です。思うように動かない身体と,際限なく連想が広がっていく頭の中身との対照が笑えます。
「電線世界」
 中学生の飛魚は,ある日,電線の上で暮らすヨーヨー老人と出会う。それが彼の新しい世界“電線世界”への旅立ちだった…
 本当の話なのかどうか知りませんが,パリの地下には縦横無尽に地下道が張り巡らせられている(いた?)と聞いたことがあります。その地下道に住み,地下道をたどってパリのあちこちに神出鬼没するアウトロゥたち,警察を後目に痛快な事件を巻き起こす地下の住人たち・・・,そんな設定の小説や映画があったように思います。
 そんな冒険活劇の舞台である“地下世界”をそっくりそのまま地上より上の世界“電線世界”に移し替えたら,というのがこの作品です。わたしたちのごく身近にあり,電気や電話,インタネでさんざんお世話になっていながら,滅多に気にすることのない電子柱や電線に着目した作者の眼の付けどころの良さにうなってしまいます。たしかに現代の日本では,電線は,パリの地下道以上に,あらゆる場所に張り巡らされていますから,多少のことに目をつぶれば(笑),地下道以上の冒険活劇の舞台になるのでしょう。
 奇想天外な設定で,一癖も二癖もある“電線世界”の住人たちが繰り広げる活躍を描いた,愉快な物語です。
「あとがき」
 普通,「あとがき」にはコメントのしようがないのですが,この作品集の「あとがき」は,ひとつの「物語」になっていて,楽しめます。その中に出ていた,なかなか気の利いた言葉をひとつ。
「物語の皮をすべて剥ぎ取って,その奥にある真実の姿をえぐり出すなどということは,たぶんだれにもできはしない。物語の皮を剥ぎ取ろうとすれば,かならずもうひとつ別の物語を作り出してしまう結果になるのだ。」

98/05/11読了

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