佐々木譲『鷲と虎』角川文庫 2001年

 「踊りと踊り手とを区別することができるだろうか」(本書より)

 昭和12年,盧溝橋事件の勃発により,日本と中国は全面戦争へと突入していく。海軍航空隊に所属する麻生哲郎中尉は,戦闘機のパイロットとして中国の空を飛ぶことになる。一方,中国空軍に傭兵して雇われた飛行士デニス・ワイルドもまた,日本軍へ戦いを挑む。そして両者は,さながら運命の糸に導かれるように,雌雄を決すべく大空で相まみえる……

 零戦を日本からドイツまで秘密裡に移送するという破天荒な物語『ベルリン飛行指令』で,この作者は,主人公として日本海軍の「はみだし野郎」を設定しました。そこでキャラクタの性格として描かれた,飛行機乗りと戦闘機乗りとの間の「ずれ」,軍人としての倫理観と日本軍の蛮行との間の「ずれ」,そしてなにより「時代」と「自分」との「ずれ」が,この作品ではメイン・モチーフになっているのではないでしょうか。
 本編の主人公麻生哲郎中尉は,みずからのアイデンティティを「軍人の家系」,それも大阪夏の陣以来,戦闘に参加していないことを「恥」とする,なんともクラシカルな(もっときつい言葉で言えば,時代錯誤的な)価値観に求めています。それゆえみずからの戦争への参加を「騎馬武者」の初陣にたとえています。
 しかし彼が中国大陸で見たものは,物量と組織がものを言い,なによりも「兵士の無名性」によって支えられた,紛れもない近代戦です。それだけではありません。政府の意向を無視して,いたずらに戦線を拡大する陸軍,南京大虐殺や重慶無差別爆撃に象徴されるような大量殺戮,残虐さを「敢闘精神」と言い換える欺瞞,現実を直視しない虚像の「戦果」,現場を無視した官僚的な上層部などなど……そこには,麻生が求めていたもの−ロマンチックな「戦闘の美学」は存在しません。
 そんな中で彼が,消耗し,疲弊していくのは,あまりに当然といえば当然といえましょう。過酷な任務による肉体的な疲労だけではなく,自分と「世界」との「ずれ」,「時代」との「ずれ」を意識すれば意識するほど,疲れていきます。その姿を,作者は,麻生の恋人鈴木マリカの目を通すことで−「太ったわね」−描き出しています。
 ですから,物語のラストに用意されたデニス・ワイルドとの一騎打ち,それは,その「ずれ」が完全にずれきれる前の一瞬の輝きであったのでしょう。互いに倒すべき相手の名前を知りあい,互いに「倒すべき理由」が存在するという,かつての「戦い」の幻影が持っていた輝きだったのでしょう。しかしそれは幻影であるがゆえに,ほんの一瞬にしか存在を許されないものです。

 10年前に起きた「湾岸戦争」は,「ニンテンドー・ウォー」と呼ばれました。テレビのディスプレイの中に映し出されるのは,爆弾のピン・ポイント攻撃によって破壊される軍事施設でした。そこには飛び散る肉片も流れる血も出てきません。近代において名前を失った兵士たちは,現代にいたって,(少なくともわたしたちの眼前からは)その肉体性をも奪われてしまったのかもしれません。
 そんな歴史の流れを思うとき,戦争の是非はともかく,主人公の思いと行動は,戦場において「人間」であろうとする姿なのかもしれません。

02/01/13読了

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