カーレン・ブリクセン『運命綺譚』ちくま文庫 1996年

 作者名は知らなかったのですが,タイトルに惹かれ,書店で手にとって,作者紹介のところを見ると,「イサク・ディーネセンは英語版用の別名」という一文。
「おお,アイザック・ディネーセン!」(<わたしはこちらの方が馴染んでいます)
 学生時代に『七つのゴシック物語』を読みました。内容はすっかり忘れていますが,不可思議な手触りを持つ作品だったことをおぼえています。
 “物語”をめぐる(と思われる)4編をおさめる短編集です。

「水くぐる人」
 ミラ・ジャマがこんな物語を語った…
 不思議な構造を持った“物語”です。ミラ・ジャマが物語を語り,その中の登場人物が別の物語を語り,さらにその中でも別の者が物語を語る。そんな“物語”が入れ子構造になっている物語です。そして最後に物語を語る者は人間ではなく,魚です。語られるのは,人間が言うところの“ノアの箱船”の物語。それは(キリスト教徒にとって)現在の“世界”が作られる最初の契機となった物語です。いわば第二の“創世神話”。しかしその物語は人間の視点によってではなく,魚の視点によって語られます。世界が水で覆われたとき,それは魚にとっては楽園です。
 入れ子構造になった物語の底の底で,創世神話が語られ,さらにその“世界”がひっくり返された視点で語られる。“物語”が“世界”に意味を与えるものであるとするならば,最後に語られる“物語”は,“世界”を創り変えるものなのかもしれません。
「あらし」
 シェークスピア劇『テンペスト』でエアリエルを演じることとなったマリは,難破しかかった船を救い,“英雄女性”として迎えられるが…
 人は誰でも“物語”の中で生きています。役者というのは,その極北にいる存在なのかもしれません。
 たとえばナポレオンという物語を生きている役者が,“現実”の世界で“英雄”として扱われてしまったら,それは役者にとって困惑する出来事でしょう。この物語の主人公,“英雄女性”として港で迎えられたマリは,じつは船の中で物語を演じていたのに過ぎないのです。船を救ったのはその結果でしかない。とまどいながらも“現実”を受け入れようとした彼女は,一緒に船を救った青年の死によって,それが“物語”でないことを思い知らされます。そして“現実”ではなく,“物語”を選び取ることによって,婚約者に別れを告げます。
 “現実”と“物語”との間に,深い溝もまた存在するのでしょう。
「不滅の物語」
 広東一の富豪・クレイ氏は,自分が知っている“事件”が,単なる物語であることを知り,それを実現化しようとする…
 “現実”の中で財を築き,それこそ自分の根元と信じていたクレイ氏にとって,“物語=虚構”は憎むべき存在だったのかもしれません。だからこそ,その“虚構”を“現実”に転化することによって,みずからを安心させたかったのでしょう。しかし,クレイ氏の作り上げた“物語”としての“現実”は,じつは新たな“物語”を増殖させていくだけだったのかもしれません。クレイ氏の“物語”の“登場人物”たちは,それぞれの事情と思惑によって新たな“物語”を生きていきます。
 最後に出てくる巻き貝から聞こえてくる“新しい声”というのは,ひとつの“物語”が生み出した,新しい“物語”を告げる声なのかもしれません。
「指輪」
 平凡な荘園領主の妻は,ある日,森の中で羊泥棒に遭遇する…
 ここではふたつの質の異なる“現実”と“物語”とが出会うときの,一瞬の光芒を描いているのかもしれません。荘園領主の妻としての平凡だけど安定した“現実”と,羊泥棒とともに逃げるスリルに満ちた,しかし不安が絶えずつきまとう“物語”との出会い。主人公の若妻は,ほんの一瞬,後の方の“物語”に足を踏み入れかけますが,結局,前者の“現実”に帰ってきます。しかし,なくした指輪が象徴するように,彼女の一部は確実に“物語”の側に残されてきたのでしょう。そんな彼女の前にふたたび現れた“現実”は,明らかに異なった色彩に彩られているのでしょう。

98/02/20読了

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