山田正紀『超・博物誌』集英社文庫 2000年

 「なるほど,たしかに愛する者を失うのは悲しみであるにちがいない。しかし,老人のわたしにとって,もっと悲しく思えるのは,わたしも,あの女の子もいつかは必ず死に,愛する者を失ったその悲しみさえも,この世から消え失せてしまうということだ」(本書「ファントムーン」より)

 辺境惑星の片田舎に住む老博物学者“わたし”が,遭遇した,さまざまな宇宙生物を,思い出とともに語る連作短編集です。

 フィクションのひとつの側面として,人間のさまざまな想い―愛情と憎悪,希望と絶望,理想と挫折,歓喜と悲哀などなど―を,「出来事」という形で外在化させたり,また誇張することで描き出すということがあると思います。その中で,SFは,その奔放な想像力でもって,より極端に,より鮮烈に形象化する「力」を持っているのではないでしょうか。
 本作品では,想像上の「宇宙昆虫」という「形」でもって,主人公の“わたし”が体験した,あるいは抱え込んだ想い―それは多くの人々に共有される類のものです―を象徴,結晶化させています。
 たとえば「ファントムーン」では,「ファントムーン」という蜘蛛に似た,不可思議な能力を持った昆虫を登場させることで,冒頭に掲げたような「忘却の哀しみ」と,それに対するSF的な「癒し」が描き出されています。また「カタパルトリッパー」には,「“RUN”」という,巨大甲虫の宇宙へ飛び立とうとする悲しいまでの試みと,「カタパルトリッパー」なる宇宙の「外側」まで跳び続けようとする昆虫の姿が描かれ,それらに,最後の「一歩」が踏み出せなかった主人公の苦い心持ちが対置されています。さらに「シェロス」でも,海から宇宙へと飛びだそうとする「惑星<海の底>」の美しい貝と,主人公の悲恋の結末が,古い映画のストーリィに仮託されながら語られます。また「惑星<海の底>」の異界の情景そのものが,主人公の心象風景とも言えます。いずれのエピソードでも,登場する宇宙生物―地球上では想像もできない性質と能力を持った宇宙生物は,主人公の哀しみや苦悩を写し出す「心の鏡」として描き出されているように思います。
 しかし,最後の2編「メロディアスペース」「タナトスカラベ」では,人間にとってのより根元的な苦悩―「孤独」と「存在理由」―に焦点が当てられながらも,それを超克しうる可能性を示唆する物語を紡ぎだしています。それまで「鏡」であった宇宙生物は,ここでは主人公の心を蘇らせ,再生させる役割を果たしています。もし「現実」でもって,この「超克」を描き出そうとするならば,おそらく薄っぺらな「人情もの」になりそうなモチーフを,SF的・幻想的手法を用いることによって美しいファンタジィに仕上げています。
 そしてなおかつ,ファンタジィでしばしば見られるような,よくいえば解放的,悪くいえば拡散的なラストを取らず,思わぬ「サプライズ・エンディング」を用意しているところは,じつにこの作者らしい幕の引き方といえましょう。それはしかし,けしてファンタジィを否定するものではなく,むしろ時空を超えた「世界に対する愛」を立ち上がらせる,やはりファンタジックなエンディングとなっています。

 この作者の作品は,好きで,かなり読んできたつもりですが,本編でまた,この作者の「別の貌」を見いだしたように思います。

00/10/06読了

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