夢枕獏『月の王』徳間文庫 1993年

 「ほんまにまあ。退屈は,飢えた魔(マーラー)より始末の悪いものでございますよ」退屈の虫にとり憑かれたアーモン王子は,仙人ヴァシタが話す奇怪な事件に,やたらと首を突っ込みたがる。“我が殿”が魑魅魍魎なぞに負けるはずないとは思いつつ,ヴァシタははらはらのしどうしで…。古代インドを舞台に,アーモンとヴァシタが遭遇する怪異を描いた作品を中心におさめた,5編よりなる短編集です。

「人の首の鬼になりたる」
 10日前,さらし首にされた盗人の首が,夜な夜な飛び回るという。そんな噂話を聞いたアーモンは…
 アーモン初登場の顔見世興行といった感じの作品です。アーモンの鍛え上げられた肉体と,どうも憎めない子どもっぽい瞳,ものに動じない胆力,飄々とした性格,どこかで見たような・・・,と,同じ作者の「九十九乱蔵」にそっくり,と思い至りました。「あとがき」を読んだら,乱蔵のプロトタイプのようです。それにしてもこの作者,近×相×ネタがけっこう多いですね。
「夜叉の女の闇に哭きたる」
 旅に出たアーモンとヴァシタ。彼らは異形の男・アザドと出会い,そして乳飲み子を抱えた女を救うが…
 この作品では,アーモンよりも,右半身が火傷のひきつれで覆われた異形の元奴隷アザドのキャラクタの方が鮮烈ですね。乳飲み子をめぐるエピソードが十分に生かされてなくて,ちょっと冗長な感じがしますが,哀しくも壮絶なラストシーンがいいです。
「傀儡師」
 アザドが,とある街で見かけた男女ふたりの傀儡師。アザドを見るや,ふたりはアザドに襲いかかる…
 というわけで,作者としてもアザドというキャラクタが捨て難かったのでしょう。本編のみ,アーモンの出てこない,アザドを主人公に据えた作品です。アザドはふたりから「ハリ・ハラ」と呼ばれます。ハリ・ハラとは,叡知の神ヴィシュヌと破壊神シヴァがひとつに合体した神の名前。前作で,半身火傷で覆われたアザドを「どこかで見たな」と思っていましたが,「ハリ・ハラ」の名前で「おお,『孔子暗黒伝』!!」と膝を打ちました。スピード感と緊張感あふれる本作品が,この作品集で一番楽しめました。
「夜より這い出でて血を啜りたる」
 旅先の村で,アーモンとヴァシタは,人にとり憑く化け物に出会い…
 ううむ,モンスタはなかなかグロテスクでいいんですがねえ,話としてはシンプルすぎて,ちょっと物足りないといった感じです。
「月の王」
 人語を解する黒き狼。彼らの住むという山中を訪れるアーモンとヴァシタが,そこで見たものは…
 インド版「狼男伝説」というか,夢枕版「月に吠える」とでもいうか…。アーモンはあまり活躍しません。ヨーロッパでは狼男は邪悪な存在ですが,ここでは神々の子孫として描かれます。チンギスカンの先祖が「蒼き狼」と言い伝えられているように,アジアでは狼はむしろ聖なる存在なのでしょう。ヨーロッパでもキリスト教以前では,狼男は神に近い存在だったのかもしれません。

97/10/15読了

go back to "Novel's Room"