ジョン・ウィンダム『トリフィド時代―食人植物の恐怖―』創元SF文庫 1963年

 「ぼくも,さよならをいっているところだった―あれらすべてに」(本書より)

 5月7日――それは空を緑色の流星雨が覆いつくした運命の夜。朝を迎えたとき,一握りの人間を残して,世界中の人々は盲目となっていた。混迷を極める中,追い打ちをかけるように,歩く植物・トリフィドが,人々に襲いかかる。滅亡の淵に立たされた人類の運命は・・・

 創元社「文庫発刊40周年記念」の「復刊フェア'99」の1冊。高校生の頃,『トリフィドの日』というタイトルで読んで以来の再読です。

 フィクションは,多かれ少なかれ,「もしこういう状態だったら」とか,「もしこういう考え方をしたら」とかいった「思考実験」としての性格を持っていると思います。そして「もし(if)」をその重要な発想の源とするSFこそが,その「実験性」がもっとも顕著に出るジャンルなのではないかと思います。
 作者は,「もし人類のほとんどが一晩で盲目になってしまったら」という初期設定を行うことで,物語をはじめます。主人公の“私”は,眼の事故で入院中のため,盲目になりません。“私”のほかにも,ごくわずかな人々が,それぞれの理由で盲目にならずにすみます。そして主人公は,少数の目の見える人々と,圧倒的多数の盲目の人々が生き延びるにはどうしたらいいか,ということについて,さまざまな考えを持った集団と出会います。
 ある者は,旧い道徳は捨て去り,新しい規律の元に新社会を作り上げるべきだと主張し,ある者は,目の見える者は盲人を手助けして生きるべきだと言います。また災厄をもたらした「緑の流星雨」は,神の与えたもうた天罰であり,キリスト教的なモラルに基づいて生きていくことを選ぶ人々もいますし,盲人を使役して,目の見える者が封建領主のごとく振る舞うことを是とする集団もいます。主人公もまた,“スーパー・マン”でも“ヒーロー”でもなく,どの「道」を選ぶのが最適なのかと悩みます。目の前の悲惨を切り捨ててでも長期的な視野に立つべきだと考えながらも,目の前の悲惨さを救えない自分に忸怩たるものを感じます。
 初期設定こそ,SFお得意の破天荒なものであるものの,その災厄によって生じた,人間側の多様な反応は,人間の持つ「光」の部分と「影」の部分を鮮烈に照射します。まさに,未曾有の災厄を目前にした人間がどのように振る舞うのか,という壮大な「思考実験」と言えましょう。そしてそれは「人類の文明とはなんだったのか?」という,文明批評へとつながっているのでしょう。その文明批評は,作中のさまざまな人物のセリフを通じて語られますが,ときにそれは辛辣な警句であったり,ときにそれは叙情豊かな言葉であったりと,いずれも味わいがあり,そこらへんも本作品の魅力ではないかと思います。
 またそれだけでなく,作者はそこに「トリフィド」という,人類の「天敵」を登場させ,トリフィドとの戦いを描くことで,ストーリィに緊迫感と躍動感を与えることに成功していると言えましょう。
 以前読んだときは,「破滅テーマSF」としてしか読まなかったのですが,今回の再読では,本作品の寓話的側面が印象深かったです。また改めて古典的名作の1編だという思いを強くしました。

 ところで本書の翻訳者井上勇は,ヴァン・ダインエラリィ・クイーンの作品を多数翻訳しているそうです。年齢(1904年生)からすれば,古くさい言い回しは仕方ないとしても,少々首を傾げてしまう文章もありました。原文がどうなっているのか,ちょっと気にかかります。

00/02/25読了

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