帚木蓬生『逃亡』新潮文庫 2000年

 「責任の所在の曖昧なこの国自体が虚ろな器なのだ」(本書より)

 1945年9月,日本の無条件降伏により,広州の憲兵隊も中国軍によって武装解除されることになった。諜報活動に深く関与していたため,身の危険を感じた守田征二軍曹は,その直前,離隊する。彼は身分を偽り,日本人収容所に身を潜め,九死に一生を得て帰国するが,故国で彼を待っていたのは,さらに苛酷な逃亡生活だった・・・

 本編は,「国家」の命令を受けて遂行した「任務」が,敗戦を機に「犯罪」として裁かれる理不尽さを,主人公守田征二と,彼を取り巻く人々の姿を通して描き出しています。守田が直面する理不尽さは,ひとつの国が戦争で敗れるという,きわめてドラスティックな状況において,より明確な形で現れますが,本編における「国家」を「組織」と,「任務」を「仕事」と拡大して考えてみた場合,このような「組織と個人との相克」は,必ずしも過去だけのものではないように思います。
 「会社」の利益を上げるため,上層部の命を受けて行った「仕事」が,「犯罪」として告発されるケースは,現代の企業犯罪においても,たびたび見受けられますし,その際に,本作品での「憲兵狩り」のようなスケープゴート,あるいは「トカゲのしっぽ切り」といったシチュエーションも,何度となく繰り返されています。所属する組織に対して忠実であればあるほど,社会に対してより不誠実になってしまう・・・そういった組織と個人との間にある二律背反は,いずれの時代にも通じるモチーフと言えるかもしれません。だからこそ,冒頭に引用した文章は,今の時代にも響き合うものがあります。

 作者は,その二律背反を,徹底的なまでに個人の視点にこだわって描き出そうとしています。たとえば守田が広州の収容所に身を潜めている場面で,作者は,同時期の広州を取り巻く状況や,さらにシベリア抑留などの他地域のありさま,つまり「大状況」をけして描きません。描かれるとしても,それらは守田が見聞きした範囲でのみ出てきます。同様のことは,主人公が帰国してからの憲兵捜査についても言えます。作中,守田の妻瑞枝は思います。
「戦争とは妙なものだと瑞枝は思う。戦う相手も,手を組んだ相手も知らないままで,家族が何年間も離れ離れにさせられ,戦争が終わった今でさえ,正体の判らないGHQなるものによって,再び親子が引き裂かれつつある」
と。たしかに,守田たちを取り巻く「大状況」をストーリィの中に挿入すれば,事態は「よりわかりやすいもの」になるでしょう。しかし,作者はむしろ,そんな「わかりやすさ」を排し,描写を個人の視点に限定することで,国家,組織によって翻弄される個人の姿を,より鮮明に浮かび上がらせようとしているように思います。
 この個人の視点へのこだわりは,作中に数多く描かれる自然描写,食事描写とも通じるものがあるように思います。ときにストーリィ展開を停滞させるようにも思えながらも,その描写によって主人公たちの「皮膚感覚」「生活感覚」レベルでの「戦後処理」の違和感をくっきりと切り取ってみせています。つまり,「組織と個人」という,ともすれば観念的,抽象的な議論に流れがちなテーマを,「皮膚感覚」「生活感覚」を十分に取り入れることで,より具体的な,個人的なものとして描き出しています。

 わたしは,かつて日本が朝鮮や中国,東南アジア諸国を侵略したことを正当化する言説に与するものではありませんが,だからといって,東京裁判をはじめとする一連の裁判を,単純な善悪図式に則って理解することにも,深い違和感をおぼえます。戦勝国が敗戦国を裁くという行為に,どれだけの「公平性」が保証されるのか,どうしても疑問がつきまとうからです。
 しかし,そんなわたしの感じ方や考え方は,所詮,実体験に基づくものではありません。ですから,本編が丹念かつ綿密に描き出している,作者の父親をモデルにしたという主人公の生き様の重みには,ただ頭を垂れるのみです。

 なお本書は,「柴田練三郎賞」受賞作品であるとともに,『このミス'98』国内編で,第8位にランキングされています。

00/08/19読了

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