高村薫『地を這う虫』文藝春秋 1993年

 「元刑事」を主人公にした5編の短編を収録しています(厳密に言うと一編だけ,退職する日の刑事を描いています)。

 「仕事」というのは不思議なもので,一方で「金のため」「生活のため」と割り切っている部分もありながら,その仕事特有の「ものの考え方」「ものの見方」が,知らず知らずうちに身に付いてしまうものです。しかし「刑事」というのは,やはり特殊な仕事であり,その仕事によって身に付いてしまった「ものの見方・考え方」も一種独特なものになるのでしょう。本編の主人公たちは,「刑事」という職業を辞めた後も,「刑事」でありつづける,あるいは,「刑事」以外になりえなかった男たちなのではないかと思います。

「愁訴の花」
 警察退職後,警備会社に勤める田岡の元に,かつての同僚であり,妻殺しの罪で服役していた小谷から電話があった…
 殺人事件の背後に潜む“闇”へと主人公を導く,一本の青紫のリンドウのイメージが美しい作品です。ラストの主人公のセリフ「お前はまだしばらく泥とともにこの世を生きろというに等しいではないか」とのコントラストも鮮やかです。美しい花をつけるリンドウの下に,“泥”が溜まっているというのが,なにか意味深です。
「地を這う虫」
 ふたつの職場を,機械並の正確さで往復する男は,不可思議な空き巣事件に遭遇する…
 主人公を「地とり専門の元刑事」に設定しているところがユニークです。そしてその特化された「能力」に対する主人公の矜持と,それが十分に認められないことへの忸怩たる想いが,せつせつと伝わってくる一編です。俗諺に「一寸の虫にも五分の魂」というのがありますが,「地を這う虫」のもつプライドと誇りとを見事に浮き彫りにしています。空き巣をめぐる謎解きもおもしろい作品で,本集中,一番楽しめました。
「巡り逢う人びと」
 刑事をやめてサラ金会社に勤める俊郎には,自分の仕事に対する信念があった…
 刑事に対立していながら,刑事と同じことをしている自分。嫌悪する相手に似ている自分。自己嫌悪の言い訳としての信念。ここで描かれる主人公の苛立ちや苦悩は,たしかに「刑事」という特殊な職業に発するものであるものの,そこから立ち現れるものには,どこか「見知ったもの」のような手触りがあります。
「父が来た道」
 大物政治家の運転手を勤める慎一郎が,背後から漏れ聞こえる政治の裏話に耳を傾けるのには訳があり…
 父を犠牲にした大物政治家の下で働きながら,情報を警察に流すことで“復讐”していると思いこんでいる主人公。その“復讐”さえも,政治家の掌の中にいたことを知ったとき,彼はいったいなにを思ったのでしょうか? 金丸を連想させる,強烈な政治家の磁場から逃れられない,逃れる気のない自分自身を確認したことが,「父の来た道」なのでしょうか? 正直,ちょっとピンとこなかった作品です。
「去りゆく日に」
 退職する日,老刑事は解決したはずの殺人事件の真相に気づき…
 本集中,唯一の「現役刑事」を主人公とした作品ですが,限りなく「元刑事」に近い設定です。諦念と枯れた想いが募る一方,刑事の執念とも功名心ともつかぬ生臭い想いの間で揺れる主人公の気持ちが,じわりじわりとにじみ出るような作品です。あいにく退職を経験したことがないのでなんともいえませんが,仕事を最後にする日というのは,この主人公のように,相反するさまざまな想いが去来するのかもしれません。

98/12/16読了

go back to "Novel's Room"