浅田次郎『珍妃の井戸』講談社 1997年

 「さようならの言葉は,韃靼語で何というのでしょうか。本当はそれを言いたいのだけれど・・・・。きっと,大興安嶺や黒龍江や,ホロンバイルの草原に美しくこだまする,風のような音にちがいありません。ではみなさん,再見・・・・。ごめんなさい。それしか知らないから。再見。」(本書より)

 清朝末期,光緒帝らによる戊戌政変の失敗後,義和団の蜂起とその鎮圧に当たった八ヶ国連合軍によって,北京は蹂躙される。それから2年後,人々の間で囁かれる秘かな噂があった。義和団事件の最中,光緒帝の寵妃・珍妃が,紫禁城内で井戸に投げ込まれて殺されたという・・・。謎の女ミセス・チャンの言葉に導かれ,イギリス・ドイツ・ロシア・日本の貴族たちは,噂の真相を探ろうとする。誰が珍妃を殺したか?

 宦官・李春雲(春児)と若手官僚・梁文秀を中心に,中華帝国の落日を描いた作品『蒼穹の昴』の続編です。
 舞台は『昴』の4年後,義和団事件を契機に,清朝はますます衰退の一途をたどっています。物語は,“珍妃殺人事件”の謎を探るというミステリ仕立てになっています。『昴』が,時間軸に沿って,物語が,さながら「大河」のごとく流れていくのに対し,今回の物語は,“珍妃殺人事件”を中心点として,その周囲を同心円状に,あるいは螺旋のごとく旋回していきます。
 また『昴』が「神の視点」で描かれていたのに対し,この作品では,さまざまな人々の“証言”という形で物語が進んでいきます。ニューヨーク・タイムズ記者のトーマス・バートン,元宦官の蘭琴袁世凱将軍,光緒帝側室で珍妃の姉・瑾妃,瑾妃に仕える宦官・劉蓮焦廃太子・愛親覚羅溥儁・・・。
 彼らは,それぞれの立場から“珍妃殺害”の犯人を告発します。それらは相互に矛盾し,錯綜し,反目します。その証言によって,『昴』以後の,歴史の有様が浮かび上がってくるという趣向です。この作品は『昴』の続編ではありますが,構成や描き方が,ちょうど好対照になっているように思えます。

 いやいや,相変わらず巧いですねぇ,この作者。1章ごとに語られる「証言」は,証言者の性格やら人柄がよく現れているように思います。とくに袁世凱の調子の良さが一番良かった。それと瑾妃の,皇帝側室とは思えない開けぴろっげな感じが楽しめました。そして,証言者によって,ころころと“珍妃殺害犯人”が変わっていくことも,ストーリーにリズムをつけ,飽きさせません。
 また,探偵役である4人の貴族(イギリスのソールズベリ伯爵,ドイツのシュミット男爵,ロシアのペトロヴィッチ公爵,日本の松平忠永子爵)の間の軋轢やら駆け引きなどは,当時の中国を取り巻く世界情勢が絡んできて,物語の緊張感を高めています。そんなこんなで,ぐいぐいと引き込まれるように一気にラストまで読み進んでしまいました。
 でもって,最後はいかにも「泣かせの浅田」らしいエンディングです。まぁ,相変わらず人物造形は少々甘いかな,という印象は拭えませんが。

 ちょっと気になったのが,なんで清朝関係略図や紫禁城の平面図を巻末に持ってきたんでしょうね? 読んでいる途中で,それらがあることに気づき,ようやく文中で語られる場所や人間関係がすんなりわかるようになりました(笑)。できれば巻頭に出してほしかった・・・・。

97/12/17読了

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