大原まり子『タイム・リーパー』ハヤカワ文庫 1998年

 「この写真そのものは記録にすぎません。けれど,そこに個人的な想いが重なったとき,それは“記憶”になるのです」(本書より)

 1988年8月2日22時17分,森坂徹は,恋人・カズコの目の前で,車にはねられた。ところが,瀕死の重傷を負った彼が運び込まれたのは,2018年の病院だった! “時間跳躍者(タイム・リーパー)”としての能力に目覚めた彼をめぐって,IEO(国際超能力者機関)とKLO(警察特殊能力開発部隊)が壮絶な争奪戦を繰り広げる・・・

 この作者の作品は,とり・みきのマンガ化作品(「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」)などを読み,「SF者」でないわたしとしても,前々から心惹かれるものがありました。が,最初に読んだ『処女少女マンガ家の念力』で挫折して以来(あの感覚的文体が,き・・・きつい・・・),なんとなく敬遠している部分がありました(でも『処女少女〜』が,この作者の作品の中ではちょっと異色のようですね)。
 で,今回,個人的に馴染みやすい「時間テーマSF」らしいということと,鶴田謙二の表紙に惹かれたことから(あ,そこの大原ファンの人,睨まないで!),読んでみました。

 物語は,いわば“タイム・パトロールもの”ということで,SFでは(きっと)古典的な設定なのでしょう。“タイム・リーパー森坂徹”をめぐる争奪戦は,さまざまな視点による短いシーンを積み重ねながら,テンポよく展開していきます。ただし,この作品の場合,このような描写法は,サスペンスを盛り上げるためのテクニックであるとともに,この作品でイメージする“時間”そのもののと結びついているように思います。
 作中,しばしば「時はほころびだらけの織物」という表現が出てきます。わたしなりに,本作品で描かれる“時間”をイメージするならば,時間全体というのは,いわばパッチワークみたいなもので,各シーン(=時間の経過)は,そのパッチワークの素材となる切れ端みたいなものなんじゃないかと思います。IEOはそれを「織り直す」ことをひとつの仕事にしているわけです。だから最初に縫いつけた切れ端が,全体の絵柄の中でうまくマッチしなければ,それは「Retake」され,別の切れ端が改めて縫い合わされる。
 そんな“時間”に対するイメージが,本作品の描写法に現れているのではないでしょうか?

 しかし,本作品での“パッチワークの切れ端”は,けっして物言わぬ布きれではありません。笑い,怒り,悲しみ,楽しむ人間(あるいは生命)たちです。だから,たとえ“別の時間”として切り離された切れ端でも,そこで一度“死”を経験したものが,切り離されたからとはいえ,やり直されるからとはいえ,すんなりと同じ場面に対面できるというわけではありません。
 またパッチワーク全体を見渡せる立場=IEOにいるからといって,これから起こる“破滅”を,「仕方のないこと」として割り切れるわけでもありません(この点,キサラギの設定,描写は秀逸です)。
 そんな“喜怒哀楽のある生きた布きれ”で織られた“時間”だからこそ,それは単なる“時間(記録)”ではなく,“歴史(記憶)”となるのでしょう。そして,本書冒頭のセリフとエンディングのセリフが円環をなして結びつくとき,本書で語られた“時間=歴史”は,主人公の妻に対する,娘に対する“愛をこめた記憶=物語”として閉じられたのだと思います。

 でもところどころ,感覚的な,あるいはポップな感じの文体に,違和感を感じてしまうのは,自分の個人的な好みなんでしょうねぇ(笑)。

98/02/21読了

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