谷甲州『天を越える旅人』ハヤカワ文庫 1997年

 毎夜見る悪夢が,自らの前世の死に際の光景であることを知った若きラマ僧・ミグマは,17年間育った僧院を後にして,自分自身とはなにかを求めて旅に出る。前世の記憶を手がかりに旅を続ける彼の前に現れる世界の秘密。聖なる山の頂上で彼が見たものは?

 壮大なる物語・・・・,なのでしょうねえ。こういった仏教ネタのSFというと,古くは光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』,山田正紀『弥勒戦争』,最後でわやくちゃになってしまいましたが半村良の『妖星伝』などがあり,近年では,この本の解説を書いている夢枕獏の『上弦の月を喰べる獅子』といったように,日本SFのひとつの流れとなっていると思います。この作品もその流れに連なるものなのでしょう。上に挙げた作品は,少ないわたしのSF体験の中で,けっこうお気に入りの作品で,この手の仏教系SF(とでもいうのでしょうか)は,けっして嫌いではありません。しかしこの作品はなぜか楽しめませんでした。なぜなのか? 作品の側の問題なのか,読み手側であるわたしのほうに問題(意識の変化?)があるのか?

 読み手の側としては,要するに「もういいよ」という感じでしょうか。この手の作品は,ストーリー展開の魅力の有無とは別に,現代物理学や現代数学を仏教用語に,それらしく読み替えることによって生じる,一種のミスマッチ的なおもしろさがひとつの「売り」になっているんでしょうけれど,もうなんだか,いい加減使い古されてしまったなあ,という気がします。それとこの手の論法って,やっぱり中○新○あたりに,いいかげん食傷気味のところもありますから。

 作品の側としては,それらの読み替えが徹底していれば,それはそれでいいんですが,最後の最後で出てくる不確定性原理は,結局読み替えせず(できず?),そのまんまです。それに「世界,世界」と言っているわりには,古代インド的世界観が,突然ビッグバンや銀河宇宙に直結してしまいます。ヨーロッパもアフリカも中国もアメリカも出てこない「世界」って,説得力ないです,はっきり言って(ここでいう「世界」は意味が違うんだ,という反論もあるでしょうが)。さらに「宇宙の構造」とか「世界の真理」などといいつつ,「異教徒」などという,それらを前にしたらほとんど意味を持たないようなことが,やたらと出てくるし・・・。ほんと,やるんだったら徹底的にやってほしかった。

 まあ,世界の屋根ヒマラヤの頂上が,異世界に通じている,という気持ちはなんとなくわかりますけどね。

1997/05/02読了

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