貴志祐介『天使の囀り』角川ホラー文庫 2000年

 この感想文は,ネタばれ気味ですので,未読の方はご注意ください。

 「人間の想像力が作り出した闇の領域は,昏くはあっても,けっして真空のような『虚無』ではない。それは,人間が真の闇に直面するまでの緩衝地帯としての役割を担っていた。それなのに我々は,自らを守ってくれていた優しい闇を駆逐してしまったのだ」(本書より)

 アマゾン調査団に参加した恋人・高梨の,帰国してからの,まるで人が変わったような振る舞いに,戸惑いを隠せない北島早苗。そのうえ,出発前,あれほど“死”を恐れていた彼が自ら命を絶ってしまった! いったいアマゾンでなにがあったのか? 調査団のメンバーがつぎつぎと不可解な死を遂げていることを知った早苗は,その真相を探りはじめるが・・・

 作者は,この作品に,ホラー小説に見られるさまざまなモチーフをつぎ込んでいます。
 まず,この物語は,ブラジル・アマゾンの奥地からはじまります。原住民から「呪われた沢」と呼ばれる場所に野営した調査団が,そこで一匹の猿を食したことが,本編の「恐怖」の発端になります。こういったオープニングは「異境ホラー」と言えるのではないでしょうか。現在,さまざまなネットワークに覆われ,地球上から「異境」がつぎつぎに姿を消していき,この手のタイプは,異星人の侵入や侵略という「SFホラー」の形をとるのがもっぱらですが,かつてはホラーのひとつの有力なパターンとして存在したものだと思います。
 さらに本編では,そのアマゾン奥地で採集された,「憑依」と名づけられた民話や,主人公北島早苗の友人で,比較神話学者の黒木晶子が語る,世界各地の蛇にまつわる神話などが挿入され,「伝奇ホラー」j的なテイストも色濃く持っています。「異境ホラー」が空間軸なのに対し,こちらは時間軸と言えましょう。
 さらに,この作品は,人格変換−「見知ったもの」が「見知らぬもの」へと変化する恐怖−を描いた「心理ホラー」でもあります。そして「心理ホラー」的側面は,本編のもうひとりのメイン・キャラクタ荻野信一の軌跡を追うことで,自分自身が見知らぬものへと変貌していく恐怖,あるいは,自分の自由意思が知らず知らずのうちに奪われていく恐怖を描くことに現れています。
 この「心理ホラー」は,さらに「科学(バイオ)ホラー」へと繋がっていきます。作中,ドーキンス『利己的な遺伝子』という書物が紹介されていますが,その本では,「生命体は遺伝子が自らを複製するための“乗り物”に過ぎない」というテーゼが語られています。つまり,人間が持っている「自由意思」とは,単に幻想でしかない,すべてが「利己的な遺伝子」によって生じた「適応戦略」でしかないという,人間にとっての根元的な恐怖へと繋がっています。
 この「科学ホラー」は,さらに,人間をコントロールする「線虫」の存在が明らかにされることによって「生理的ホラー」へと変貌していきます。人間の脳髄を食い荒らし,人間を人間ならざるものへと変えていくおぞましさが加味されます。そしてその恐怖は,クライマクスにおける,グロテスクに「変身」を遂げた犠牲者たちの姿によって,頂点へと達します。それは「スプラッタ・ホラー」に通じる生理的な嫌悪感を誘発します。
 まさに「マルチ・ホラー」と呼べる作品ではないでしょうか。

 しかし,この作品の真のおもしろさは,このような多種多彩なホラー的モチーフを,見事なストーリィ・テリングで,じつにスリリングな「お話」に仕立て上げている点にあるでしょう。
 物語は,大きくふたつの流れで構成されます。ひとつは,北島早苗が,恋人高梨の死と,彼が残した「天使の囀りが聞こえる」という奇妙な言葉を手がかりとして,「事件」の真相を追っていく流れです。もうひとつの流れは,「恋人シミュレーションゲーム」にのめり込む荻野信一が,ふとしたことからインターネットのサイト「大地(ガイア)の子どもたち」を知り,そのオフ会に参加したことから,しだいしだいに「壊れていく」姿を描く流れです。前者は,いわば「外側」からのアプローチであり,後者は「内側」からの描写と言えましょう。
 作者は,このふたつの流れを交互に配することで,巧みにサスペンスを盛り上げています。また,荻野信一が参加するチャット,オフ会に登場するキャラクタたちに,ハンドル・ネームのみを名乗らせることで,「外側」から接近する早苗たちとの間の関係−早苗たちが知る人間とどう関係するか?−を,ミステリアスなものにしています。
 多様なモチーフを盛り込んだホラーは,ときとして「ごった煮」的な印象を与えますし,またそれらを「説明」するための描写が,ストーリィ展開を停滞させる場合が往々にしてありますが,この作品では,モチーフとストーリィが上手に織り交ぜられ,スピード感を失わせずに,ラストまで,読者を飽きさせることなく,物語を牽引していると言えましょう。

 こういったグチョグチョ,ヌタヌタの昆虫が這いずり回る作品は,さほど得意とは言えませんが,それを差し引いても十分楽しめる作品でした。

00/12/17読了

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