貫井徳郎『修羅の終わり』講談社文庫 2000年

 この感想文は,この作品の内容に深く触れているため,未読の方には不適切な内容になっています。ご注意ください。

 過激派“夜叉の牙”を追う警視庁公安課刑事・久我。警察の権威を借りて悪行を繰り返す,西池袋署防犯課の腐敗警官・鷲尾。そして新宿歌舞伎町の路上で目覚めたとき,記憶喪失に陥っていた“僕”。3人がそれぞれにたどった“修羅”の結末とは・・・

 物語は,3つの流れが交互に描かれながら進んでいきます。公安警察を正義と考え,過激派“夜叉の牙”を追いつめるために,その隠れ蓑日青同にスパイを送り込もうとする刑事久我。彼は,目を付けた高校生斎藤に接近し,スパイとすることに成功しますが,しだいにみずからの職務に疑問をおぼえていきます。それは,それまで尊敬していた先輩藤倉の理不尽な,非人間的な指示を受けるようになって,より深まっていきます。一方,西池袋署防犯課の鷲尾は,自分が警官であることをいいことに,弱者を痛めつけることに快感をおぼえる,一種のサイコパスといっていいでしょう。久我と鷲尾は,ともに警察機構に身を置きながら,正反対のキャラクタとして設定されています。しかし,久我は公安警察という巨大で非情なシステムの中で徐々に狂気に蝕まれていき,鷲尾は警察機構を隠れ蓑にして,みずからの狂気を満たしています。つまり正反対ながら,ともに警察機構が生み出した「闇」を体現しているといえるのではないでしょうか。
 さて,作者は,このふたつのコントラストをなしつつも双生児のような物語に,さらにもうひとつ,“僕”の物語を挿入していきます。記憶喪失に陥った“僕”は,偶然知り合った智恵子に助けられ,みずからの過去を追って彷徨います。そして小織という女性から,「あなたとわたしは前世で恋人同士だった」と告げられます。さらに小織の口から語られる「前世」は,久我の物語あるいは鷲尾の物語と抵触しはじめ,3つの物語は錯綜しながら進んでいきます。

 解説で笠井潔が書いているように,この作品のメインの「謎」は,この3つの物語の関係はいかなるものなのか? というところにあると思います。この「仕掛け」は,同じ作者の別の作品(タイトルを書いてしまうとその作品のネタばれになってしまうので書きません)の,いわば「応用編」といった感じで,その作品を読んでいれば,その「仕掛け」の存在はおおよそ見当つくと思います。問題は,その「仕掛け」がどのように「作用」するか,というところにお楽しみの眼目があるのではないでしょうか? それは具体的には“僕”とは何者なのか? “僕”は,久我の物語,鷲尾の物語それぞれにどう関わるのか? ということになります。
 で,そのことはラストにおいて明らかにされるわけですが,その結果,関係ないとされた片方の物語は,長大な「ミス・リーディング」としてディレートされてしまうことになります。たしかに,仕掛けが大きければ大きいほど,それがガラガラと崩壊していくカタルシスというのはあるのでしょうが,先述しましたように,久我の物語にしても,鷲尾の物語にしても,それぞれ「暗黒小説」を思わせるずっしりとした重みのある内容だけに,この「仕掛け」によって「関係のない話」になってしまうことは,わたしとしては,少々不満が残りました。まぁ,要するに,「この『仕掛け』を用いるのに,こんなに長く書く必要があったのだろうか?」ということです。
 本作品で用いられた「仕掛け」を重視するならば,もっとすっきりとタイトにした方が,よりインパクトが強いように思いますし(この作者の「あの作品」のように),これほど重厚に各物語を描き出すのであれば,たとえば3つの物語が有機的に結びつくような形での「仕掛け」が必要だったのでは,などと思ってしまうのです。
 そういった点で,不完全燃焼な部分を残してしまう作品でした(もしかすると,わたしが気づいてないだけかもしれませんが・・・^^;;)。

00/04/16読了

go back to "Novel's Room"