北村薫『スキップ』新潮文庫 1999年

 昭和40年代の女子高生“わたし”一ノ瀬真理子は,秋の夕暮れのまどろみから醒めると,四半世紀の時を超え,桜木真理子になっていた。17歳の心と42歳の躰を持った“わたし”は,現代という未来世界で,戸惑いながらも新しい生活を送り始める・・・

 「見知らぬ自分」というのは,多くのエンタテインメント小説で取り上げられているモチーフです。ミステリであれば,「記憶喪失」ネタと絡めながら,「自分は何者か?」という謎を追うといったパターンでしょうし,「二重人格」もののサイコ・スリラは山ほどあります。またSFであれば,「タイム・スリップ」やら「人格転移」やらと結びつくでしょうし,「憑依」ネタのホラーにもこの範疇に含まれるものもあるかもしれません。
 本書は,そんな「見知らぬ自分」を素材にしながらも,定番とも言える「なぜ」を問うことはせず,むしろ,「見知らぬ自分とどう折り合うか」をメインに持ってきたユニークな作品となっています。

 わたしたちは,生まれる時代も,生まれる場所も選ぶことはできません。ある日,突然,すでにある「世界」へと投げ込まれます。そこはわたしたちの知らないヒトとモノに満ち,わたしたちの知らないルールで動いています。そういった意味で,本作品の主人公一ノ瀬真理子にふりかかったSF的状況―17歳の少女の心が42歳の女性の躰に,それも「未来の自分自身」に時を超えて宿る―は,じつは,わたしたちの「生」の在りようとよく似ているのかもしれません。
 もちろん,わたしたちは,そんな「投げ込まれた世界」の中で,さまざまなことを学び取ることで生きていきます。それは「経験」と呼ばれます。しかしこの作品の主人公は,その「経験」がすっぽりと抜け落ちた形で「見知らぬ自分」「投げ込まれた世界」と対峙しなければなりません。彼女が持ち得る武器は「心の若さと柔軟さ」です。「夫」である桜木先生や,「娘」美也子のサポートを得ながら,彼女は教師としての桜木真理子としての生活を始めます。
 たしかに上に書いたような点で,主人公の選択には共感を覚える部分もあるのですが,そういった選択をする主人公の心理展開が,ちょっと唐突な感もあり,いまひとつすんなり馴染めないところもあって,イントロ部分で少々つまづいたところがありました。また,これはこの作者の他の作品―とくに「円紫師匠と私シリーズ」の「私」―にも通じるところがあるのですが,この作者の描く「若さ」というのは,多分に「優等生的」というか「いい子的」なところがあって,そのあたりも感情移入できない要因なのかもしれません(自分自身が,もっとひねた高校生だったからかなぁ(笑))。

 さらに付け加えれば,作者は「昭和40年代の女子高生」である“わたし”の目を通して,「未来社会としての現代」をさまざまな形で批評するのですが,そこに,方法としての巧妙さととも,ちょっと言葉はきついですが「いやらしさ」みたいのも感じ取ってしまいます。
 もし同じことが「42歳の桜木真理子」の口から出れば,「年取った者の繰り言」になりかねない内容を,「四半世紀前の17歳の一ノ瀬真理子」の口を通すことで,「繰り言」の場合には生じるであろう反感や「どうしようもなさ」を回避しようと試みているように思います。そこには,しばしば学校の先生が,生徒に自由に発言させておきながら,巧みに誘導しつつ,教師が望む結論へと落ち着かせる,という手法と似た手触りの「巧妙さ」「いやらしさ」を感じてしまいます(このことは,この作者が元国語の教師だったという情報が影響を与えているのでしょう)。

 なんだか文句ばかり(それもきわめて感覚的な)書いてしまったような感じですが,じゃぁ,つまらなかったのかというとけしてそうではありません。もう少し,“わたし”の知らない「桜木真理子」という謎に対するミステリ的アプローチがあった方が,個人的には好みですが,不条理な状況に投げ込まれた主人公が,「これからどうなる?」という期待感で,サクサクと読んでいけました。また本作品のクライマックスでもあるバレーボール大会の雰囲気描写は秀逸で,思わず引き込まれてしまいました。
 ただ,この作品だけでなく,この作者の作品全体に感じる「違和感」というか「ずれ」のようなもの,つまり上に書いたような「優等生的」「いい子」的キャラクタや,いかにも学校の教師のような「巧妙さ」「いやらしさ」が,より鮮明に感じ取れた作品ではありました。
 わたしはどうも,この作者の作品に対して,アンビヴァレンツな感情を持っているようです。

98/07/28読了

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