篠田節子『死神』文春文庫 1999年

 「N市福祉事務所」を舞台にした,8編よりなる連作短編集です。

 「福祉」という耳あたりの良い言葉は知っていても,その「福祉」の現場,最前線についてはほとんど知りません。「福祉」を,「慈善」を訴えるテレビ番組の多くは,「福祉」そのものというより,「福祉をめぐる『物語』」に終始しているように思います。つまり,画面に映し出された「社会的弱者」と,その画面を通じて「わたし」とが直接結びついているような錯覚を生み出す「物語」です。画面の前で「わたし」は,この作品に描かれているような「首吊り死体を抱きおろす事」もなく,「訪問先で組員から危うく強姦されかけた」こともありません。ですから,それは「福祉に関わっている」という錯覚が生み出す幻想といってしまっては言い過ぎでしょうか?

 この短編集は,そんな,居心地のいい幻想を打ち砕くものといっていいでしょう。たとえば「花道」では,8歳の娘を連れて公園で野宿をしていた母親が登場します。離婚後,自らの生活費さえも稼ぐことなく,友人に頼り,他人に頼るばかりの女性です。福祉が「自ら助く者を助く」ことを理念とするならば,この綾のような女性は,福祉の対象とはならないでしょう。しかし彼女は,その「依頼心」を(無意識のうちに)武器として,強かに世間を渡っていきます。
 また「失われた二本の指へ」において,福祉事務所の鮫島は,ろくでなしの夫から妻―彼女は彼のかつての同僚です―を救おうとしますが,鮫島の思いは空回りし,結局,「苦い敗北感と男女の絆の不条理さへの怒り」にかられるに終わります。さらに「死神」の,「福祉」を行う側である重松は,さながら「福祉」の対象となるが如きアル中です。「社会的弱者」に対する深い思いゆえに,家族を顧みず,深酒に溺れていった男です。流浪の末に死んでしまう高木と彼との間の差異はいったいいかほどのものなのでしょうか?

 しかし,そんな「福祉の無力さ」だけを描いているわけではありません。「選手交替」は,学生結婚して,就職経験のない,のほほんとした女性が,幸運にも助けられながら,気がつくと「自立」しているといった,少々アイロニカルでありながらも,後味のいい作品です。同様に,「ファンタジア」は,かつてティーンズ小説の流行作家秋元碧が,栄養失調で病院にかつぎ込まれるというストーリィ。「夢見る夢子さん」である作家と,少女時代,彼女の作品に深く影響された事務所員由梨江との,時間をおいた「再会」の苦さとせつなさを描いています。しかし,
「夢を食っては生きていかれないが,夢を食うことによって現実に向かう勇気も生まれてくる」
というセリフは,そんな「苦さとせつなさ」を越えて生きるための力強さを伝えているように思います。

 ところで,この作者らしい,ミステリ・タッチ,幻想タッチの作品も含まれています。「七人の敵」では,隠し撮りのヴィデオで脅迫された事務所員安倍,その背後に隠された意図は・・・という内容。後半での「謎解き」はじつに鮮やかで,またラストも思わず苦笑させられます。一方,「しだれ梅の下」は,元芸妓の老婆稲菊の見た(?)幻想を,ケースワーカー元子が共有するお話。最後の「落とし所」は,この作品のテーマのひとつ「人は夢を見終わっても生きていかねばならない」と共通するものがあるのでしょう。また「緋の襦袢」は,筋金入りの老詐欺師マサが入居したマンションの一室は,幽霊が出るという因縁付きで・・・というエピソード。これまた,マサの哄笑がたくましいというか,小憎らしいというか,不思議な爽快感がありますね。

 「社会的弱者」とは,たしかに相対的なものであるとはいえ,確実に存在します。社会が矛盾と差別,悪意をどうしようもなく抱え込んでしまう限り,必ずといっていいほど存在します。その一方,居心地のいい「社会的弱者をめぐる『物語』」も繰り返し再生産されます。そして過剰な「物語」は,ときとして,「社会的弱者」に対する新たな攻撃―「あいつら,税金でいい目見やがって!」―を引き起こします。「物語」をいったん取り除いて,冷静な,しかし想像力を持って「社会的弱者」の問題を考える必要があるのでしょう。なぜなら,人は必ず老い,またわずかなきっかけで,自分自身が「社会的弱者」になる可能性を秘めているのですから。

99/11/17読了

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