篠田節子『斎藤家の核弾頭』朝日文庫 1999年

 2075年,徹底した管理国家となった日本。政府によって,先祖伝来との土地を追われた斎藤家は,新たな土地“東京ベイ・シティ”からも立ち退きを迫られる。無法な政府のやり方に怒り心頭に発した斎藤家の家長・総一郎は,偶然手に入れたウランで核武装,日本国政府に宣戦布告する!

 一種の「アンチ・ユートピア小説」と言えましょうか。
 徹底した国家による管理,「国家カースト主義」による人々のランクづけと選別が行われる「近未来の日本」。かつては「特A級市民」であった斎藤総一郎は,先祖代々住み着いていた土地を追い出され,“島流し”の目に遭った上,さらにその土地からも強制的に移住させられそうになります。そして偶然手にしたウランを使って核武装,日本国政府に宣戦布告する,さて彼らの運命は如何? というお話です。
 こんな風にストーリィをまとめてしまうと,なんとも痛快な冒険小説的なテイストの作品のように思えますが,作者はそこにもうひとつの視点を導入することで,そんな能天気な「冒険小説」の世界を相対化させています。その視点とは,総一郎の妻美和子の視点です。彼女は,「特A級市民」の妻として,5人の子どもを産み,6人目も妊娠中です。さらにそのうちのひとり小夜子は,ホルモン処置技術のミスから,幼児のまま巨大化するという障害を負っています。
 彼女の視点はつねに「日常」的です。なによりも子どもたちを,家庭を守ろうとします。ですから,国を相手に戦争を始めようとする総一郎たちとの感覚とは,まったくといっていいほどずれています。しかし,その「ずれ」が,総一郎の「英雄的行為」を戯画化する役割を果たしています。総一郎の言う「誇り」「人間としての尊厳」が,じつは単なる「意地の張り合い」でしかなく,それらを守るためと称して核兵器を使おうとする行為が,「大量虐殺」以外のなにものでもないことを,くっきりと見せつけます。
 それゆえこの作品は,二重の意味で,現代日本のカリカチュアになっています。管理国家vs斎藤総一郎という対立図式によって,「管理」と「効率」によってすべてを割り切ろうとする現代の風潮をグロテスクに描き出します。しかし,そこに総一郎vs美和子という関係を埋め込むことで,対立しているはずの国家と総一郎の両者が,じつは,美和子の大事にする「日常」を押し潰すという意味で,「同じ穴のムジナ」であることを暴露しています。
 しかし美和子の視点だけでは,総一郎たち男の視点を相対化することは可能であっても,それを止揚することはできません。そこで作者は小夜子という,きわめて特殊な少女(?)に重要な役割を与えます。ネタばれになるのであまり書けませんが,同時代性とともに,老いた者の叡知をも併せ持った彼女こそが,美和子を,そして総一郎をも超克できる唯一の存在だったのでしょう。
 無法な国家に対する果敢な戦い―そんなエンタテインメント作品でしばしば見かけるフォーマットを踏襲するように見せかけながら,その戦いそのものが持つ虚しさ,ばからしさを,女性キャラクタの目を通じて描き出すところは,やはり女性作家ならではの視点なのかもしれません。

 それにしてもこの作者の「芸風」は,幅広いなぁ・・・

99/11/26読了

go back to "Novel's Room"