山田正紀『竜の眠る浜辺』ハルキ文庫 1998年

 「この“異変”は,ぼくたちみんなに与えられた,人生のリターン・マッチなんだ」(本書より)

 百合ヶ浜町−人口2000人足らず,活気に欠け,およそ際だったところのない,ありふれた海浜の街は,ある夏の日,霧に包まれ,外界との連絡を遮断されてしまう。不審に思う住人たちの前に現れたのは,はるか過去に滅びたはずの恐竜と原始植物群だった…突如蘇った“太古の地球”に街の人々は…

 なにか人智を越えた,あるいは経験したことのない“非日常”が生じ,そこからドラマが始まる,という設定の作品は,SFに限らず,エンタテインメント作品では,しばしば見受けられるものです。それはおそらく,日常の中では隠され表面化されることのない(たとえ表面化されても,ずっと穏やかな形でしか出てこない)さまざまな感情(プラスであれマイナスであれ)を描きやすいという利点があるからでしょう。
 ですから,“非日常”の出現という同じような初期設定であっても,作者の目が「どこを向いているか」によって,作品の展開は大きく変わります。たとえば危機的状況に政府がいかに対応するかというポリティカル・フィクションになる場合もあれば,事態によって引き起こされたパニックが人々の心の中に眠る凶暴性や欲望を発現させるというペシミスティックな内容になる場合もあるでしょう。映画などでは,ひとりのヒーローが苦難を乗り越え事態解決へと突き進むというパターンが多いのではないでしょうか?

 さて本編は,平凡な海浜の田舎町が,突然,中生代白亜紀にタイムスリップするという状況から始まります。ティラノサウルスをはじめとした巨大恐竜が跋扈し,空には翼竜が飛び交う,そして熱帯の熱気に包まれ繁茂する原始の植物たちは,家々を覆っていく…このなんとも奇想天外なシチュエーションに対して,当然「なにが起こってもおかしくない」状態になり,パニックと暴動,無法地帯化するといった選択肢もあるのですが,本編を貫いているのは,むしろ「楽天性」と「ユーモア」です。
 そのことはまず文体に現れています。たとえば冒頭,舞台となる百合ヶ浜町の描写において,この作者お得意の,ちょっと斜に構えたような雰囲気も漂わせながらも,百合ヶ浜町が,小規模で平凡,眠くなるような町であることを,ユーモラスに,そして的確に描き出しています。
 そしてなんといっても,そのユーモアは,メインとなる登場人物たちの設定や描写にも活かされています。町最大の“資本家”久能直吉と,その父親に反発しながらも覇気のない息子直巳,怠け者で変わり者の作家(?)田代正昭,少女から女性へと変わりゆく藤田麻子,おせっかい焼きを生き甲斐とするタバコ屋の老婆シズなどなど,ときに辛辣な指摘も含みながらも,作者の彼らを見る目は,基本的に暖かいものです。とくに,この手のストーリィでは,しばしば「憎まれ役」になるであろう,コテコテの「ヲヤジ」である久能直吉に対する理解ある視線がいいですね。
 これらのユーモアは,作品そのものの「楽天性」とも響きあい,作品全体をファンタジックな色合いへと染め上げていきます。そしてそれとともに,そのファンタジック性を支えているのが,本編の「青春小説」「ビルドゥング・ロマン」的な性格です。ダメ人間が,“非日常”を通過することで再生していくというパターンは,常套的といえば常套的ですが,それでも直巳や田代に与えられた親和性のあるキャラクタゆえに,彼らの「再生」の姿は,心地よいものがあります(とくに直巳vsティラノザウルスの顛末はグッドです)。

 ハードで,ときにペシミスティックな傾向のあるこの作者の初期SF作品の中では,やや異色のテイストを持った作品と言えるかもしれません(作者の「あとがき」を読むと,作者自身もそのことを自覚しておられるようです)。

03/11/03読了

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