アイラ・レヴィン『ローズマリーの赤ちゃん』ハヤカワ文庫 1972年

 憧れの“ブラムフォード”に入居できたローズマリーとガイの若い夫婦。少々お節介な隣人の老夫婦に辟易しながらも,俳優である夫の仕事は順風満帆,ローズマリーも待望の懐妊,なにもかもがうまくいっているはずの彼らの生活だったが・・・

 映画化もされた「モダン・ホラーの古典的傑作」と呼び声の高い作品です。正月に実家に帰って,本棚の片隅から探し出してきました。十数年ぶりの再読です。今回改めて読みかえしてみて,「結末」がわかっていながらも,これだけぐいぐいと読み進めていける作品は,やはりすごいと思いました。
 で,なんで楽しめたかというと,「前兆」「予兆」の描き方が,オーソドックスながら,じつに巧いと思ったからです。
 ホラーと呼ばれるジャンルの「怖さ」や「おもしろさ」は,小説であれ映像であれ,作中で描かれる「恐怖の核心」がもたらす「怖さ」もありますが,それとともに,その「核心」が現れるまでの「前兆」や「予兆」もまた,重要な要素になるのではないかと思います。映画『エイリアン』があれほど怖いことの理由のひとつは,最後の最後になるまで,「恐怖の核心」である「エイリアン」がその姿の全貌を見せないことにあると思います。またH・P・ラヴクラフトの作品は,むしろ「恐怖の核心」にまつわるさまざまな「予兆」や「前兆」だけを描くことで,より一層の恐怖感を高めているのでしょう。

 さてこの作品でも,主人公・ローズマリーの前に,さまざまな「予兆」「前兆」が現れます。オープニングでのショッキングなテリーの死,ローズマリーの友人ハッチが語る“ブラムフォード”にまつわる怪異な噂,隣人キャスタベット夫妻からもらった奇妙な臭いのする“お守り”,夜中にひとり起きているガイ,おりから訪米しているローマ法王に対するさりげないコメントなどなど・・・
 その中でわたしが「おもしろいな」と思ったの次のようなシーンです。
 ある配役をめぐってガイと争っていたライバル俳優が,突然失明してしまい,彼にその役が回ってきます。「ちょっと散歩してくる」といって部屋を出たガイ,ローズマリーは窓から彼が下の表玄関から出てくるのを見ようとしますが,彼は出てきません。「きっと五十五丁目の方の玄関から出たのだ」と思うローズマリー・・・
 これだけ書くとなんのことやらわからないかもしれませんが,「結末」を思い起こすとき,この物語におけるガイの役割を,じつにさりげなく描き出し,また読者の想像力―ガイはいったいどこへいったのか?―を刺激するワン・シーンではないかと思います。逆に「結末」を知っているからこそ,楽しめるシーンかもしれませんが・・・(^^ゞ

 でもこの作品で描かれる「恐怖」というのは,たしかに「異形の妊娠」という点では人類共通のものがあるかもしれませんが,やはりキリスト教徒的な「怖さ」なのでしょうね。

 ところで,文中に「ラヴする」という表現がたびたび出てきます。おそらく「make love」の訳だと思いますが,今だったら「愛し合う」と訳すところでしょうね。四半世紀前では,「愛し合う」という日本語と「make love」という米語とは,イメージがうまく重ならなかったのかもしれませんね。じゃぁ,「make love」の訳語として「愛し合う」という表現が一般的になった今の時代って・・・^^;;

99/01/10読了

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