北村薫『六の宮の姫君』創元推理文庫 1999年

 卒業論文のテーマに「芥川龍之介」を選んだ“私”は,アルバイト先の出版社で,老作家から芥川の思い出を聞く。そして彼が聞いたという,芥川の謎めいたセリフ。その言葉を手がかりにタンテイを始めた“私”が見出したものは,大正昭和期を駆け抜けたふたりの作家の生の軌跡だった・・・

 「円紫師匠と私シリーズ」の第4作は,文豪芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」をめぐる謎を描いた,「歴史ミステリ」というか「文学ミステリ」というか,そんな体裁の作品です。
 わざわざ「そんな体裁」と書いたのは,この作品の眼目が,主人公“私”の調査を通じて描き出される作者・北村薫の「芥川龍之介論」であり,「菊池寛論」なのではないかと思うからです。実際,作者はかなり丁寧に出典文献をあげており,また引用文にもスペースを割いています。その書き方は,小説というよりむしろ評論あるいは論文と呼んでいいかもしれません。
 しかし,それでいながら,本作品は1編のフィクションであり,「物語」でもあります。なぜなら,主人公が「六の宮の姫君」をめぐるミステリを調査し始めるきっかけは,老作家田崎信が伝えた,芥川が語ったとされる言葉―「あれ(「六の宮の姫君」のこと)は玉突きだね。・・・・・いや,というよりはキャッチボールだ」―です。
 この「田崎信」という老作家がフィクショナルな存在である以上,彼が聞いたとする芥川のセリフもまた,フィクションだと思います。先に書いたような丁寧な出典・引用の記載を考えたとき,このセリフが事実だとするならば,当然,なんらかの根拠が示されてしかるべきだと思います。
 いわば,作者の「芥川論」「菊池論」を,正面切って描くのではなく,主人公を通じて描くという手法を用いるだけでなく,そのきっかけ,とっかかりをフィクションに設定することで,作品全体に「物語」というオブラードをかけているのではないでしょうか?

 もちろん,この作品の「物語性」は,そういったオブラードという部分だけにあるわけではありません。これまでの,このシリーズでは,主人公“私”の瑞々しい感性や想いを柔らかくせつないタッチで描くことに特色があるものの,基本的に“私”はワトソンという役回りであり,メインはホームズである円紫師匠です。
 しかしこの作品で作者は,“私”に「謎解き役」,ホームズの役を割り当てます。円紫師匠ほどの頭の冴えのない(失礼!)“私”は,逐一,資料にあたりながら,読者と同時進行で「六の宮の姫君」をめぐるミステリを解いていきます。そこには,名探偵物の鮮やかさはないものの,主人公が感じる「調べることの快楽」「知ることの愉悦」を読者が共有できるという仕組みになっています。
 そして,これまで設定上「聞き役」であった主人公の“私”は,自分自身の手と足と頭で考え,ひとつの結論へとたどり着くというプロセスを経験します。作中,主人公が円紫師匠を評する言葉として「万能解答機のような人」というのが出てきます。しかしこの作品における彼の役回りは,“私”にサジェスチョンを与える人物であり,あくまで裏方に徹しています。それは円紫自身の意思でもありますが,その結果,この作品は“私”が自分自身で解答を見つけるという「成長物語」としての側面もまた併せ持つことになったのではないでしょうか?
 また大学における卒業論文は,(少なくとも建前上)学生が4年間に学び取ったものの総仕上げ,として位置づけられています。『空飛ぶ馬』で出会い,『夜の蝉』『秋の花』を通じて,“私”が円紫師匠から学び取ったものの「卒業論文」が,今回の「謎解き」なのではないでしょうか?

98/07/04読了

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