高村薫『李歐』講談社文庫 1999年

 鬱屈した想いを抱えながらも,平凡な日々を送る大学生・吉田一彰の前に現れたひとりの青年・李歐。彼との出会いが,一彰の人生を変えた。まったく異なる人生を歩んできたふたりを結びつけたのは,大陸への熱い想いだった。しかし時代の非情な流れはふたりを引き離し・・・

 やはりこれは,主人公吉田一彰李歐との,ひとつの「恋」の物語なのでしょう。
 「男が男に惚れる」という言い回しがあります。任侠映画に代表されるように,伝統的な男社会において,この言葉はしばしば用いられます。それは「男同士の友情」と呼ばれ,そこには性愛的な意味合い―ホモ・セクシュアルな意味合い―は,一般に含まれていないとされています。しかしそれはあくまでフィジカルな面での「意味合い」が含まれていないだけで,メンタルな部分では,やはりホモ・セクシュアルなものを多分に含んでいるように思います。
 この作品では,その「男が男に惚れる」という言葉の持つメンタルなホモ・セクシュアル性を,フィジカルな―性愛的な―表現で描き出しているように思います。それはきわめて女性的な眼差しに基づくものなのかもしれません。その眼差しは,男性的な視野において,おそらく無自覚的に(ときとして意図的に)回避されてしまっているのでしょう。
 なぜなら,「男の友情」にフィジカルな,性愛的な色合いを持たせることは,「人間再生産のための性愛」を否定するものだからです。男性だけの社会―一昔前の企業など―において女性は必要ありません。「惚れあった男同士」だけで充分なのです。しかし男性だけでは社会は再生産できません。そこに女性という「産む性」を導入する必要があります。つまりフィジカルなセックスは「男女関係」に任され,男性同士の「恋」はメンタルな部分に限定されなければならないのです。「男が男に惚れる」にフィジカルなものが介入してはならないのです。

 しかし,この作者は,そういった無自覚な―それゆえに,ときとして強固な―ハードルをやすやすと越えてしまっています。「男同士の友情」の中に,「男女の恋情」と同質のものが潜んでいることを鋭く暴き出します。この作者特有の,粘液質とも言える長いセンテンスの文体で描き出された,一彰と李歐との「男の友情」はじつに淫靡であり,エロチシズムに満ちています。一彰の李歐に寄せる想い―「恋しい,恋しい」―は,会えない「恋人」への熱情です。この作品のキャッチ・コピー,
「李歐よ君は大陸の覇者になれ。僕は君の夢を見るから――」
は,夫の出世を夢見る妻の言葉といっても,けしておかしくないと思います。だからこそ,一彰が李歐と出会ってしまってからは,橘敦子房子も,彼の前から去らねばなりませんし,妻の咲子さえも死なねばならないのです。ふたりの「恋」の間に女性が入り込む余地はないからです。そして息子の耕太は,「ふたりの父親」である一彰と李歐に挟まれて眠るのです。

 なにかよくわからない感想文になってしまいましたが,男性作家が描きえなかった「男の世界」を,ある意味,残酷とさえ言えるほどの視点―「男の友情」を「男女の恋愛」のごとく描く視点―で描き出した作品なのかもしれません。

98/03/28読了

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