リチャード・バックマン『レギュレイターズ』新潮文庫 2000年

 1996年7月15日午後3時45分,オハイオ州ウェントワースのポプラストリートに,1台の赤いワゴン車が乗り入れてきたことが,すべてのはじまりだった。車の窓から突き出されたショット・ガンがつぎつぎと町の住人たちを撃ち殺していく。電話と電気は断線,ポプラストリートは完全に孤立した。平和で平凡な郊外住宅地を襲った不条理な惨劇の行方は・・・

 近年のCG技術の目を見張るような発達によって,実写映像の中に「マンガ(アニメ)的表現」を導入することを可能にしました。たとえば映画の『MASK』や,スカイ・パーフェクトTVのCMなどです。それらの映像では,驚いたときに目の玉が飛び出し,ものにはさまれた顔が,さながら餅のようにつぶれてしまいます。
 わたしは,マンガやアニメが好きで,そういった「表現」を毎日のように目にしているにもかかわらず,実写映像の中でそれらが表現されると,どうしようもないほどの違和感,拒否感を感じてしまいます。その理由は,「マンガ的表現」が,「お約束」の上にのみ成り立つ記号であり,マンガやアニメを見る場合は,その「お約束」を暗黙の前提とした上で,「マンガ的表現」を受容しているのに対し,実写の場合には,その「お約束」を排除した上で(つまり「現実にはこんなこと−目の玉が飛び出したり,顔が潰れる−はない」と認識した上で)CGによる「マンガ的表現」を見ているからではないかと思います。そしてその違和感は,端的には「グロテスクさ」として感じ取られます(このことは,単に上に挙げたような極端な表現に限らず,マンガに出てくるキャラクタが,「そのまま」実写の中に登場したら,恐ろしいほどにグロテスクなものになるでしょう)。

 物語は,暴力的なまでに不条理なシチュエーションからスタートします。平凡で平和な郊外住宅地−オハイオ州ウェントワース・ポプラストリート−に,突如,古い西部劇の登場人物たちやアニメのキャラクタたちが出現し,つぎつぎと町の住人を殺戮していきます。作者は,その原因も理由も触れることなく,しだいにエスカレートしていく事態を,お得意のキャラクタのトリビアルな描写を織り交ぜながら,ぐいぐいと描き出していきます。
 また殺戮者たちが,現実とは思えぬようなフィクショナルであればあるほど,「マンガちっく」であればあるほど−たとえば「顔」のない「ノー・フェイス」や,殺戮者たちが乗る過剰デコレーションの車などなど−,それがもたらす災厄とのギャップが大きくなり,不気味さ,グロテスクさが増幅されるという仕掛けになっています。
 つまり本作品では,上に書いたような「マンガ(アニメ)的表現」と「実写」との齟齬が生み出す「グロテスクさ」をじつに効果的に用いているように思います。
 しかし,不条理でスピード感たっぷりにストーリィを展開させながらも,作者は,終結にいたる「手がかり」を散りばめておくことを忘れません。最初,あまりに「手がかり」が断片的なことに−書き殴ったような絵はがきであったり,西部劇の解説文であったり,意味ありげな文章で綴られた日記であったり−,本作品と「表裏一体をなす」と惹句にある『デスペレーション』を先に読むべきだったのかと思ってしまいました。もちろん,本作品は,これだけで独立したものであり,これら「断片」が相互に響き合い,組み合いながら,クライマクスへと雪崩れ込んで行くところは,この作者の技量が思う存分発揮されていると言えましょう。
 ショッキングなラストを和らげる,幻想的なエンディングもじつにいいですね。

01/01/08読了

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