シェイマス・スミス『Mr.クイン』ハヤカワ文庫 2001年

 「犯罪はビジネスだ。その心構えのないやつは,塀のなかで暮らしてくれ」(本書より)

 “おれ”ジャード・クインは,プロの犯罪プランナー。麻薬王バディ・トナーと組んでさまざまな犯罪を計画してきた。しかし自分の手はいっさい汚さない。そこがプロのプロたる所以だ。今回の仕事は,不動産業者の一家を事故に見せかけて殺し,会社を乗っ取ることだった。ところが新聞記者に嗅ぎつかれたことから・・・

 この作品を「名探偵不在の本格ミステリ」と呼ぶことは不可能でしょうか? もし,犯人の視点−主人公ジャード・クインのモノローグ−から描かれる本編を,被害者の側−たとえばキャロル−から見たらどうなるでしょうか?
 ある夜,湖中に沈んだ自動車から父親と姉の溺死体が発見される。しかも同夜,母親が階段から落ちて転落死。しかし警察はいずれも事故死として処理してしまう。その後,キャロルの周囲には不可解な出来事が続発。死んだ父親の自分を呼ぶ声が聞こえ,母親が大事にしていた花壇を自分の手で枯らしてしまう。自分の行動に自信が持てなくなった彼女は,しだいしだいに神経を蝕まれていき・・・
 というところで,本格ミステリであれば,名探偵が登場し,キャロルの周囲に起こった事件の数々が,ある犯人によって用意周到に準備された連続殺人事件であることを明らかにし,意外な犯人を指摘,物語は大円団を迎える,という展開になるでしょう。
 実際,クインは,事故死と処理された溺死事件や,キャロルが眠るたびに耳にする「父親の声」などに,本格ミステリだからこそ出てきそうなトリックをいくつも使います。また,この作品の「探偵役」であるモリーが,ある手紙の不自然さから−それは犯人=クインの見落としでもあります−,事故死の背後になにか不穏なものがあると気づくシーンは,巧妙な伏線が引かれた秀逸なものです。つまり本編におけるクインの犯罪は,まさに本格ミステリでは最後の最後に名探偵によって解き明かされる,細心に計画,準備,実行された「完全犯罪」と言えます。

 しかし冒頭に書きましたように,この作品には「名探偵」は出てきません。探偵役であるモリーは,物語の最初から,クインの手の内で踊らされ,玩ばされ,ボロボロにされてしまいます。そのプロセスがなんとも壮絶です。クインは,邪魔なモリーを単に「排除」するのではなく,彼女の夫を,彼女のある「決断」の結果として殺し(殺させ?),彼女の自尊心,良心をズタズタにします。この人の心を踏みにじるような犯罪を,淡々と,いやさむしろ嬉々として実行するクインの姿を最初に描くことで,この物語の「基調トーン」を的確に描き出しています。
 またキャロルの両親と姉を謀殺するシーン(それはマグワイヤという,こちらも天性の犯罪者によって実行されます)においても,クインが,作家と偽ってほう病理学者から,さまざまな「完全犯罪」の可能性を聞き出す回想シーンとオーヴァラップさせることで,それこそ,クインが小説中のキャラクタたちを痛めつけたり,殺したりしているかのような錯覚を呼び起こし,クインの底知れぬ冷酷さを上手に浮かび上がらせています。

 以前,とある評論の中で,本格ミステリの醍醐味は「名探偵」にあるのではなく,巧妙な完全犯罪・不可能犯罪を考えつき実行する「名犯人」にこそあるという,なかなかうがった意見を読んだことがあります。しかし,その名犯人も,たとえどんなに頭が切れて冷酷で巧緻であっても,名探偵によって,その犯罪が白日の元にさらされる宿命にあるのが本格ミステリです。しかし名探偵が不在であったときの「名犯人」の姿,それこそが本編のクインなのではないかと思います。もっとも,けっして隣にいてほしいというタイプではありませんが・・・^^;;

01/05/03読了

go back to "Novel's Room"