清水義範『尾張春風伝』幻冬舎文庫 2000年

 御三家筆頭尾張徳川家六十二万石,その藩主の末っ子として生まれた松平通春は,「一生部屋住み」と割り切って,遊蕩の限りを尽くす。ところが思いもかけぬ運命の変転で,七代藩主となってしまった通春,八代将軍徳川吉宗が押し進める倹約政治“享保の改革”に対抗するかのように,大胆な経済活性化計画を断行し始めるが・・・

 徳川通春(宗春)徳川吉宗・・・ともに御三家の血筋に生まれ,普通であれば,一生冷飯喰らいを余儀なくされたであろうにも関わらず,思いがけない巡り合わせで,片や尾張藩六十二万石の第七代藩主,片や幕府第八代将軍に登りつめたふたりの人生は,どこか相似たものがあります。しかし,そんなふたりではありますが,性格は正反対。吉宗からすれば通春は,武士の風上にも置けない遊蕩児,一方,通春の目に映る吉宗は絵に描いたような田舎者,野暮将軍です。元禄バブルがはじけた後の経済政策も,吉宗の緊縮財政と通春の経済活性化政策と,これまたまったく逆の方向を指向します。
 この通春vs吉宗の対立は,のちの時代の田沼意次vs松平定信を思い起こさせます。つまり,台頭する商人層の活力を政治に導入しようとする重商主義と,経済基盤である農業の再活性化をはかる重農主義との対立とも言えましょう。おそらくこの対立は,江戸時代を通じて存在していて,時代が下るにつれ,より顕在化したもののように思えます。通春と吉宗の対立は,その一場面を象徴的に表しているのかもしれません。そしておそらく,その背後には,文化と社会をめぐる考え方の違い,さらに政治観・民衆観の違いが横たわっているのでしょう。

 とはいっても,この作者の持ち味は「軽妙さ」にあります。この作者の,数多くのパスティーシュ作品に見られるように,深刻ぶったもの,真面目くさったものを,さまざまな形で模倣しながら軽妙な「シャレ」にしています。なによりも「粋」や「洒落」,「けれん味」を身上とし,その名の通り「春爛漫」の通春こそ,この作者の文体に,じつにフィットしたキャラクタと言えるかもしれません。内側に重いテーマを潜ませつつも,エッセイにも似た筆致で,通春の青春時代,そして藩主になってからの生活を生き生きと描き出しています。
 そして穿った見方をするならば,通春は吉宗の「パスティーシュ」なのかもしれません。パスティーシュはたしかに文体模倣と呼べなくはありませんが,たとえばこの作者の代表作「永遠のジャック&ベティ」は,アメリカの陽気なカップルを,堅苦しい「教科書的英訳」という形で描くことで笑いを誘っています。ミス・マッチなふたつのものを重ね合わせることで笑いを産みだしています。吉宗というガチガチの守旧派を,180度変換させたものが通春です。時代が巡り合わせた,このふたりのミス・マッチの中に,作者は「パスティーシュ」を見いだしたのかもしれません。
 作者はまた,通春の中に自分自身を見ている,託しているようなところもあります。それは「名古屋」に対する,ちょっと屈折した愛情です。通春は,名古屋の「田舎臭さ」を嫌い,江戸の自由な空気を愛しながらも,名古屋を江戸のようにしたいという愛着を強く持っています。一方,この作者は,名古屋を題材にした作品を数多く発表していますが,そこには土地や人々に対する愛着が色濃く出ていながらも,その一方で「なんでもかんでも名古屋!」といったような,贔屓の引き倒し的な愛着は見られません。むしろ,名古屋のもつさまざまな欠点を,おもしろおかしく描きながら,それでもなおかつ「名古屋が好き」というスタンスにたちます。それはちょうど,パスティーシュのオリジナルに対する愛情―小学生が好きな女の子をいじめたくなるような愛情―にも似ていると言えるでしょう。

 どうやら,この通春,吉宗を主人公とした作品では,もっぱら「悪役」といった役回りのようです。ネットで,テレビ番組『暴れん坊将軍』のファン・ページを見たところ,通春(宗春)の配役は,なんと中尾彬!(いや別に,この役者さんがどうの,というわけではなく,少なくとも本編で描かれたイメージとは,あまりにギャップがありすぎて・・・)。
 ですから,その「悪役」の通春を,主人公にもってきて,流布しているイメージを刷新するのを眼目のひとつにした作品とも言えるかもしれません。

00/08/31読了

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