瀬川ことび『お葬式』角川ホラー文庫 1999年

 「第6回日本ホラー小説大賞短編賞」受賞作の表題作と,書き下ろし4編をおさめた短編集です。

 「なにを語るか」と「いかに語るか」とは,どのような関係にあるのでしょうか? もし,論文や評論のように,内容を的確に伝えることを目的とするならば,両者の関係は比較的シンプルでしょう。しかし小説の場合,ふたつの関係はより多様です。むしろ語る内容と語り口との間にズレを意識的に作り出すことによって,通常にはない効果を狙うものも,表現方法のひとつとしてありえます。この作品集に収められた5編は,いずれもそんな「ズレ」を意図的に作り出すことで,独特のテイストを生み出しているといえましょう。

 たとえば「お葬式」では,主人公の少女の,どこか醒めたような,それでいてどこかユーモアのある口調で,「先祖伝来のお葬式」の様子が語られていきます。その語られる内容が,カニバリズムという不気味なものにも関わらず,「別にたいしたことじゃない」といった感じで描かれると,不思議な手触りが生み出されます。またラストでの,謎の「親戚」の正体も,この世ならぬ異形のもの―餓鬼でしょうか?―ではありますが,主人公の最後のセリフによって,それすらも,まるで「日常」の延長線上に自然に存在しているようにさえ思えてきます。
 つぎの「ホテルエクセレントの怪談」では,日常から非日常へ,「あたりまえのこと」から「奇怪なこと」へと,同一地平の中で物語が「するり」と移行してしまいます。先輩から怪談を吹き込まれた新米ホテルマンが,ホテルの中で見つけたロック歌手の追っかけ少女,彼は彼女に同情するが・・・というストーリィです。それまでに,さんざん怪談が語られていながら,物語の焦点は,それらをはずして,別のところから現れます。ホラー映画などで,観客の視点をある一点―モンスタが登場すると期待する一点―に集中させておいて,別の角度からモンスタを出現させてショックを与えるという手法を彷彿させるものがあります。ラストは苦笑させられます。
 「十二月のゾンビ」も,「語り口」と「語る内容」とのズレを意識した作品と言えましょう。主人公の下宿に突然現れた知り合いの女性。ところが彼女は車にはねられて死んでいるゾンビ,おまけに再三無言電話をかけてきたストーカ。どう考えても,慌てふためきそうな,パニくりそうな設定でありますが,主人公は,驚きを通り越して,一種の思考麻痺状態に陥ってしまいます。そんな状態での対応は,ゾンビが登場する作品とは思えぬほど,淡々としたものとしています。さらに笑いを誘いながらも,せつない雰囲気さえも醸し出しています。ただラストの主人公のモノローグは,少々蛇足のようにも思います。
 「萩の寺」は,タイトルと言い,オープニングと言い,オーソドックスな「山中怪談」といった風情の作品ですが,ここでも,謎の尼僧のやんわりとした,昔を懐かしむような語り口調と,その語られる内容の異常さとのズレが効果的に用いられています。さらに尼僧の語っている「思い出」はいったいいつの時代のことなのか? という不鮮明さが,話す内容の輪郭をより曖昧にし,不気味さを深いものにしています。
 最後の「心地よくざわめくところ」は,上の4編とはややテイストは異なりますが,やはり原発の事故と,それがもたらすであろう「暗黒の未来図」を,まるでなにかのイヴェントのように,はしゃぎながら語る主人公の語り口そのものが,つかみどころのない不安感を感じさせます。「日常」から「世界の破滅」に至る,一歩手前の光景とでも言えましょうか?

99/12/27読了

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