山之口洋『オルガニスト』新潮文庫 2001年

 この感想文は,本作品の内容に触れていますので,未読で先入観を持ちたくない方にとっては不適切な内容になっています。ご注意ください。

 「芸術家でない者にとって,九十九と百の差はあるかなきかの違いだろう。だが,九十九と百の差を埋めるために生涯を費やすのが芸術家というものなのだ」(本書より)

 南米から送られてきた1本のミュージック・ディスク。そこには無名のオルガニストの演奏が録音されていた。“ぼく”は,そのすぐれた技量を示す演奏の中に,9年前に失踪した天才オルガニスト,ヨーゼフ・エルンストの“面影”を見い出す。しかしヨーゼフは,交通事故のためオルガニスト生命を絶たれたはずだった・・・

 第10回ファンタジーノベル大賞受賞作品です。この賞の受賞作を読むのは,第1回の酒見賢一『後宮小説』以来ではないかと思います。今回の文庫化にあたって,大幅に改稿したようです。

 わたしは常々,「芸術」の「術」と「技術」の「術」は通じるものがあるのではないかと思っています。いや,もっと踏み込んで言えば,ふたつの「術」の根元は,同じものかもしれないとも思っています。
 たとえば音楽の場合,声楽を除けば,多くの場合「楽器」を用います(声楽は,人間の身体そのものを「楽器」とすると言えましょう)。すべての楽器は,それを作り出すための「技術」が必要です。製作者の,才能と経験に裏打ちされた技術が求められます。バッハの崇高な音楽もまた,オルガンという楽器が,それを作り出しうる技術が存在してはじめて,表現可能・成立可能であったのです。つまり,音楽という芸術にとって技術は必要不可欠なものなのでしょう。

 さて,ひとりの天才オルガニストの数奇な人生を,その友人でヴァイオリニストである“ぼく”の視点から描いた本編の前半,作者は,語り手の“ぼく”を,オルガン工房へ訪れさせています。そこでオルガン製作に関わるノウハウを描いています。またところどころ,オルガンの構造にも言及しており,オルガン芸術の「技術」的側面を大きくクローズアップしていると言えます。それは「芸術」が「技術」によって支えられているという作者の視点なのかもしれません。
 しかし,この「芸術」と「技術」との関係は,後半において,別の「貌」を見せます。交通事故のため半身不随になったヨーゼフを再生させたのは,最先端の医療技術です。そこにはフィクションならではSF的な部分を含むとはいえ,その技術とは,オルガン製作技術と通じるもの,人間の技術としてオルガン製作技術の延長線上にあるものと言えましょう。「技術」が関わるのが,楽器か,人間かという違いがあるものの,「技術が芸術を支える」という構造そのものは,両者は相同形です。
 しかしヨーゼフは,恩師ラインベルガー教授と対立します。「技術」によって復活したヨーゼフの「音楽」の中に,教授は「不快なもの」を感じ取ります。それは「技術」と「芸術」とめぐる関係に対する「音楽観」の違いに由来するものなのでしょう。それとともに,功成り名を遂げた教授と,オルガニストとしてその戸口に立ったばかりヨーゼフとのスタンスの違いでもあるのでしょう。
 けれども皮肉なことに,教授の爆死という悲劇的な形を取りながらも,ふたりは異なるルートを経由しながら,同じ「バッハの本質」へとたどり着きます。つまり,ヨーゼフに教授と同じ高みに行き着かせたことで,前半で描かれた「技術に支えられた芸術」という作者の視点が,ここにも現れているように思います。それゆえ,「ぼくは音楽になりたい」というヨーゼフの切望が,ある意味「現実化」したこの物語の結末は,SF的な奇想に因るものとはいえ,作品の底部に流れるこの作者の視点の必然的な終着点なのかもしれません。

01/10/14読了

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