池波正太郎『鬼平犯科帳(六)』文春文庫 1978年

 時は,人を痛めつけもすれば,癒しもするものなのかもしれません。このシリーズでは,しばしば時の流れの中で変わりゆく人,変わらぬ人,それらの人々の出会いと別れを描き出しているように思います。
 たとえば本書に収録された「のっそり医者」。小網町二丁目に住む町医者・萩原宗順,見目は悪いものの,貧乏人からは金を取らない人望の厚い人物。ところが,そんな彼の周囲になにやら不穏な動きが見られ・・・というエピソード。じつはこの宗順,30年前に人を斬り,藩を出奔しました。一方,彼を仇と狙う土田万蔵は,彼を追ううちに盗賊の一味に落ちぶれます。平蔵はラストでつぶやきます。
「一人の人を殺めたことへの後悔が,いまの宗順を生んだ。なれど,何人も人を殺した土田万蔵は・・・」
 また「礼金二百両」は,大身旗本・横田大学の息子が誘拐され,おまけに家康から拝領した,横田家の家宝が盗まれた。事件の解決を依頼された平蔵は・・・,というお話。事件の背後には,20年前に先代横田大学によって手をつけられ,追い出された妹の仇を討たんとする老臣の姿があります。20年間の恨み辛みは,時の流れの中で癒されることなく,沈殿しつづけていたのでしょう。
 一方,「大川の隠居」には,引退した老賊が出てきます。船頭として堅気の生活を送る彼ですが,「むかしの盗人根性が頭をもちあげてきてね」と,なんと平蔵の家から煙管を盗み出します。結局,平蔵にやりこめられるのですが,平蔵の粋なはからいもあって,全編ユーモアに溢れたエピソードです。老賊の「正統派盗賊」としての変わらぬ矜持には,どこかすがすがしいものがあります。

 そして本集でもっとも長いエピソード「狐火」には,無頼漢だった若き平蔵と因縁浅からぬ盗賊「狐火の勇五郎」が出てきます。先代・勇五郎は,けっして血を流さない大盗賊であったのに対し,このたび江戸に現れた「狐火」は,店の者を皆殺しという極悪非道の輩。かつて勇五郎に世話になった元盗賊,いま平蔵の密偵であるおまさは,この凶盗が本当に二代目勇五郎なのか,と単独探りを入れるが・・・という話です。
 先代・勇五郎,その妾・お静とねんごろになってしまった若き日の平蔵,二代目勇五郎,当時又太郎と恋仲になってしまったため,狐火一家を追われたおまさ,そして今,火盗改方・御頭としての平蔵,密偵のおまさ・・・・。このエピソードでは,過去の因縁と今の立場が微妙に食い違い,すれ違います。とくにおまさは揺れる心で逡巡します。そして時の流れの中で変わらぬ想いと,変わってしまった人が一編の物語を織りなしているといえるかもしれません。

98/10/07読了

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