山田風太郎『人間臨終図巻 I・II・III』徳間文庫 2001年

 古今東西の著名人約900人の「臨終」の有り様を集めた異色作です。古くはソクラテス孔子などから,新しくは現代の政治家,文化人まで。若きは15歳で火刑となった八百屋お七から,老いは『ギネス・ブック』にも載った126歳の泉重千代まで(もっとも泉重千代の年齢には疑問もあるそうですが)。とにかくさまざまな人々の臨終の様が,「死亡時の年齢」ごとにまとめられ配列されています。

 そう,この「死亡時の年齢」という「基準」が,本書の最大の特色になっているといえましょう。「同じ死亡時の年齢」で集められた人々のまとまりは,一種,不可思議な印象を与えます。たとえば「七十三歳で死んだ人々」(III巻)には,「山上憶良」「カザノヴァ」「伊能忠敬」「グリム・弟」「ダーウィン」「清水次郎長」「川端康成」「児玉誉士夫」らが並ぶといった具合です。彼らが生きた時代や環境,業績や生き様はいっさい捨象されていまます。このような配列は,ちょうど,それぞれの言葉がその本来の脈絡から切り離され,「音」によって配列される「辞典」の編集の仕方によく似ています。辞典において言葉が「音」によって平等化されているように,本書に収められた人々は「死」によって平等化されていると言えましょう。もちろん時代や地域によって平均寿命は違うにしろ,ここで示されるの「死の前の平等」「何者も死からは逃れられない」という厳然たる事実です。
 しかしその一方,このような配列は,「死の前の平等」とともに「死に方の不公平さ」を示すことにもなっています。ある者は穏やかで苦しみのない死を迎え,またある者は病の苦痛に苛まれながら死ぬ,あるいはテロリストによって突然の不本意な死を迎える者もいれば,いろいろな事情からみずから死を選ぶ者もいます。栄光の頂で死ぬ者と凋落の果てに死ぬ者とがいます。「同じ年齢」で死んだとしても,その「死に方」は百人百様です。

 その「死に方の不公平さ」は,さらに,「自分の死は他の誰にも代わることができない」というもうひとつの真実を示します。たとえば山口二矢浅沼稲次郎。昭和35年,講演中の社会党委員長・浅沼は,山口によって刺殺されます。山口は逮捕後,少年鑑別所で縊死を遂げます。この,端から見れば「一連の死」とみなされるであろう「ふたりの死」は,しかし,本書ではそれぞれ「十代で死んだ人々」(山口)と,「六十二歳で死んだ人々」(浅沼)とに分断されます。たとえ「一連の死」であったとしても,山口は山口の,浅沼は浅沼の「自分の死」を死んでいったことが鮮やかに描き出されています。
 さらに「死亡時の年齢」順に配された本書は,読者にひとつの読み方を強います。それは読者が,みずからの年齢と,書中に収められた人々の死の年齢とを否応もなく意識せざるを得ないということです。自分より若い人の死,同年配の死,年寄りの死…言うまでもなく読む側の年齢はさまざまです。それゆえに本書は,読者に対しても「自分の読み方」,他者に代わることのできない読み方を求めていると言えましょう(もちろん本の「読み方」は人それぞれですが,本書の場合,その「当たり前のこと」がよりくっきりと浮かび上がるのではないでしょうか)。

 以上のことは本書の構成が産み出した特色ですが,各人の「臨終」の描き方,評し方には,この作者独特の,まさに「山風節」とも呼べるニヒリズムとシニカルさが十二分に現れています。とくに各章冒頭に付せられた,死をめぐるアフォリズム。それは他作家からの引用も含まれますが,作者自身の言葉も数多く収められ,そこにはビアス『悪魔の辞典』を彷彿とさせる辛辣さと「黒い嗤い」が込められています(『悪魔の辞典』からの引用もあるのですが)。
 その中でも「九十五歳」に示された一文−「人間の死の記録を寝ころんで読む人間」は,その辛辣さにおいて最たるものでしょう。本と読者との間にある薄い「膜」−他人事としての「死」−が,突然切り裂かれ,作者の「刃」−「おまえも死ぬのだ」−が読者の首元に突きつけられたような衝撃をこの一語は持っています。

 世に「異色作」と喧伝される作品は多々ありますが,その中でも本書は異色作中の異色作と評せましょう。そして異色作でありながら傑作であるという希有な例ではないでしょうか。

02/04/28読了

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