白石一郎『南海放浪記』集英社文庫 1999年

 鎖国直前,南海で一旗あげようと,御朱印船に乗りこんで長崎を旅立った岡野文平。しかし,台湾を目前にして,乗っていた船から海中に転落してしまった彼は,その後,台湾,マカオ,キイナム,そしてアユタヤへと彷徨っていく。その土地土地でさまざまな日本人と出会いながら・・・

 というわけで,この作者の十八番「南海もの」であります。
 主人公は,父親が台湾で死んだという,島原出身の岡野文平です。ですが,どちらかというと,彼が東南アジア各地で出会う日本人たちの群像を描き出すことがメインになっているように思います。しかし「群像」などと書くと,なにか勇壮な感じがしますが,実際には,むしろ異邦の地で,孤独と哀愁の中で生きる日本人の姿が中心になっています。
 たとえば最初の章「御朱印船」に出てくる,文平が働く商店の主人趙白労は,かつて武士として台湾に渡ってきた日本人ですが,いまでは狡っ辛い小商人,明国人の妻の尻に敷かれています。文平と意外な関係が明らかにされますが,そのことで,文平は打ちひしがれます。また「馬上の女」では,オランダ女性に恋いこがれた,元傭兵隊長の哀れな末路が描かれ,「うらぶれ切支丹」では,幕府のキリスト教弾圧により出国した切支丹の悲しい死が,また「日本人町」では,店の主人が日本に帰ってしまったにもかかわらず,主人の現地妻と娘に付き従う律儀者の番頭の姿が描き出されています。いずれも,異国の地で孤独に,ある種の諦観を持って市井の中で生きている人々です。
 また「海賊船」では,かつて「倭寇」として恐れられていた栄光にしがみつく「海賊」たちが,「長政の肖像」では,アユタヤ王国の高官まで登りつめながら,毒殺された日本人傭兵隊長山田長政への想いの中でしか生きていけない老兵が,登場します。彼らの姿は,日本人が東南アジアで活躍していた時代の終焉を告げているのでしょう。

 そう,岡野文平が南海を放浪する時代というのは,徳川幕府が鎖国を断行し,海外に飛び出た日本人たちが棄てられる時代です。ある者は商人として,ある者は傭兵として,南海で活躍していた日本人たちが,しだいしだいに姿を消していく時代の大きな変わり目です。本作品のラスト・シーンとして,最後の御朱印船がアユタヤを去るシーンが描かれていることが,端的にそのことを物語っています。
 ですから,そんなひとつの波が退いていく時代背景と,一種の「根無し草」として南海を彷徨う主人公の姿とが相まって,作品全体が哀調を帯びたトーンに彩られています。「南海もの」というと,山田長政に代表されるような「雄飛する日本人」「波瀾万丈の人生」が素材として取り上げられることが多いですが,そういった作品とはかなりテイストが異なっています。しかしここで描かれた「南海の日本人」もまた,その時代のもつひとつの「貌」なのでしょう。
 けれども,ラストで,みずからの意思でアユタヤに残ることを決めた文平の姿には,きっぱりとした清々しさ,潔さを感じます。放浪の果てに文平が得たものは,もしかすると,その後永い眠りにつくことになる日本では,けっして得ることのできないものなのかもしれません。

00/03/19読了

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