吉村昭『生麦事件』新潮文庫 2002年

 文久2年8月21日,京へ向かう島津久光一行の前を横切ったことを理由に,イギリス人が斬殺される。世に言う「生麦事件」である。激昂するイギリス,強硬姿勢を崩さない薩摩藩,両者の間で苦渋を強いられる幕府。事件から10ヶ月後,膠着状態に業を煮やしたイギリスは,ついに軍艦を薩摩に派遣,錦江湾に砲声がとどろく…

 鹿児島に尚古集成館という博物館があります。元薩摩藩主・島津家の会社島津興業が運営する博物館です。そこに薩英戦争のときの両軍の砲弾が並んで陳列されています。薩摩軍の砲弾が円球形なのに対し,英軍のそれは文字通り「砲弾形」。彼我の軍事力の違いが,まざまざとわかる展示品です。

 本編は,タイトルとなっている生麦事件から,薩英戦争・馬関戦争・薩長同盟・幕府崩壊と,幕末6年間の推移を描いています。その描き方は,安易な想像を極力排し,抑制の効いた文体で,淡々と史実を積み重ねていく,この作者特有のものです。しかし, 時は幕末,200年以上に及んで日本を支配してきた巨大な権力機構が崩壊していく動乱の時代です。それも「佐幕・開国」「尊皇・攘夷」を主たる対立軸として動いてきた時代が,「倒幕・開国」へと大きく転回する時期にあたります。ですからたとえ淡々としたタッチで描かれるとしても,そこには否応もなく波乱に満ちた展開になります。いやむしろ,丁寧に綿密に史実が描かれているからこそ,「時代のうねり」のようなものが,圧倒的なまでの「存在感」をもって読者に迫ってきます。

 そして作者は,この「倒幕・開国」へのターニング・ポイントを,生麦事件と,そこから派生した薩英戦争に求めています。欧米列強の武力を背景とした「開国」に対する拒絶反応としての「攘夷」は,ひとつの心のあり方として十分に理解できるものです。またその「攘夷運動」が幕府の屋台骨を大きく揺さぶっていくのも事実でしょう。しかしそれは同時に,欧米諸国がアジア諸国で進めた植民地化の危機を,日本にも招き寄せる「呼び水」になる危険性をも含んでいます。
 その危険性に対する自覚のきっかけとして,作者は生麦事件と薩英戦争,そして馬関戦争を位置づけています。上に書いた薩摩軍の砲弾と英軍のそれとの違い−射程距離・命中率の違いに象徴されるような,軍事力と,それを支える技術力の圧倒的な懸隔が,「攘夷は暴論」という認識へと結びついていきます。ここにもまた作者の緻密な史実の描写が活きています。薩英戦争のディテールを丹念に描き込むことで,英軍の軍事力の強大さを描き出すのに成功しています。それゆえにこそ,その後に下される島津久光の決断が,「英断」としてリアリティを持ってくるのでしょう。
 また当初,公武合体派であった久光が,幕府を見限り,倒幕へと転向していくところも,物語の前半,生麦事件に対する幕府の弱腰の対応−イギリス側の要求に対する回答期限を引き延ばすことのみに汲々としてる幕府を,これまたくどいくらいに描き出しているところと呼応しています。けっして史実を丹念に描くことだけが,この作者の目的ではないことが,その構成,選び出されるエピソードによってうかがい知れます。

 それともうひとつ,この作品の魅力には,その映像性があるのではないかと思います。作者は,登場人物たちの姿を緻密に描き込むとともに,加えて,さらりと,じつにさらりとその周囲の風景を挿入します。それゆえ,データの羅列とさえみまごう文章は,その風景描写によって,さながら映画を見るように,ひとつの「場面」として浮かび上がってきます。いわば映画において,その細部−登場人物の衣服や髪型,さらに歩き方までに対するきめの細かい設定が,画面としての迫力・リアリティを産むのと同様の効果といえましょう。

 ところで,鹿児島在住者としては,薩英戦争のシーンは,実際の地名などに引き合わせておもしろく読めたのですが,非在住者の方にはどうなんでしょう? たとえば「上町・下町」なんて語が,なんの説明もなく,ポンと出されているところとか…ちなみに「上町」というのは,鹿児島城下でも寺院や高級武士層の居住区で,それに対して「下町」は下級武士層,町人の居住区です。西郷隆盛大久保利通などは,いずれも「下町」の出身です。

02/06/23読了

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