柴田よしき『紫のアリス』文春文庫 2000年

 不倫関係を清算して,10年間勤めた会社を辞めた紗季は,夜の公園で,『不思議の国のアリス』に出てくるような「三月ウサギ」を目撃する。思わず“彼”を追いかけた彼女がつまづいたのは,男の死体だった。それ以来,彼女の周囲には,「不思議の国」の住人たちが出没しはじめ・・・

 ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』は,もうずいぶん前,中学生の頃に読みました。じつのところ,「よくわからない」というのが率直な感想だったのですが,最後のシーン――「絵の出てこない字ばかり書いてある本を読んでいる」アリスのお姉さんが,「不思議の国」をめぐってきたアリスの姿に,自分が失ってしまった「少女の時」を,哀惜をもって見いだすシーンが,すごく印象に残っています。アリスよりも,むしろ,このお姉さんの方にシンパシィを感じたことを覚えています。ですから,わたしにとって「アリス」とは,「あらかじめ失われた」存在だったのかもしれません。

 「アリス」をメイン・モチーフとする本作品もまた,「失われたもの」が重要なキーとなっています。主人公の紗季は,永年の不倫関係に疲れた30歳の独身女性です。もちろん言うまでもなく,彼女にも「少女」の時代がありました。中学生の頃,親友の知美と一緒に入ったESS,そして突然で不可解な死を遂げた知美の代役として,舞台でアリスを演じた紗季。知美の死は,事故なのか? 事件なのか? 紗季の記憶は忘却の淵に沈んでいます。
 物語は,そんな彼女の「失われた時」を「謎の核心」としながら,彼女の周囲に起こる,さまざまな死,さらに,紗季が目撃する,とても現実とは思えないフィクショナルなキャラクタたち―三月ウサギ,帽子屋,アリスなどなど,混沌としていて幻想的な雰囲気の中で進行していきます。情緒不安定な主人公が飲む精神安定剤の副作用で,ときおり記憶をなくすという設定が,その混沌をより奥深いものにしています。
 紗季が体験する出来事は,現実なのか,それとも彼女の心の中に生じた妄想であり,幻覚なの? そのあわいを走る抜けるようにして展開するストーリィの果てに,物語はミステリとして「現実」の地平に着地します。しかし作中人物たちにとっての「現実」とは,相互に微妙なずれを持っています。作中人物のひとり,越智刑事にとっての「現実」と,主人公にとっての「現実」は異なっています。紗季にとっての「現実」は,越智にとって狂気という名の「不思議の国」に属するものと言えましょう。「現実」とも「不思議の国」ともつかぬ展開の末に待っていた解決もまた,「現実」と「不思議の国」とが「入れ子構造」となった奇妙な手触りなものとなっています。

 「アリス」は,「不思議の国」や「鏡の国」から「現実」に帰還します。それは,彼女のお姉さんが感じるように,「少女の時」の喪失という,どこか哀しみをたたえたものなのかもしれません。しかし,もし「アリス」が,永遠に「不思議の国」「鏡の国」を彷徨うことになったとき,「アリス」は幸せになれたのかどうか,そんなことを考えてしまいます。

00/11/13読了

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