浅田次郎『地下鉄(メトロ)に乗って』徳間文庫 1997年

 25年ぶりのクラス会,悪酔い,恩師との再会・・・。奇妙な夜,地下鉄から外に出た真次は,自分が昭和39年の世界に立ち戻っていることを知る。その日は,兄が自殺した夜・・・。そして,ふたたび過去をさかのぼった彼は,敗戦直後の闇市で,“アムール”と名のる男に出合う・・・。“時”は,彼になにを見せようとしているのか?

 「近親憎悪」という言葉がありますように,性格が似ているがために憎しみを感じるということは,しばしばあるようです。ただその「近親憎悪」のただ中にいるときは,「似ている」ということさえも,きっとみずから認めるようなことはないでしょう。自分の「憎しみ」の正体を「近親憎悪」と呼べるようになった時点で,おそらく「憎悪」は客体化され,「和解」まではいかないにしろ,「理解」にたどり着くことが可能になるのかもしれません。

 中学生の頃,自分のふとした言動が,父親に酷似していることに気づき,愕然としたことがあります。思春期で,父親に屈折した想いを宿していた頃だけに,自分にとっては,けっこうショックでした。子どもにとって「父親」というのは,あくまでも「父親」であって,「父親以前」とか「父親以外」の「父親」という存在は,なかなか想像しにくいものです。「父親」であるがゆえに憎む(あるいは愛する)ということと,「ひとりの人間」として憎む(あるいは愛する)ということとは,どこかで微妙に違うように思います。だから「和解」はできなくても「理解」できるようになるということ,それは「父親」という代替不可能な絶対的な存在から,「ひとりの人間」という相対的な存在へと,相手のポジションを置き換えることではないかと思います。だから「親子だから」とか,「家族愛」とかいう美名のもとに,胡散臭い「和解」を強要するより,「理解」することのほうが,親子関係では,おそらく困難なことではありましょうが,重要なことなのかもしれません。

 地方在住者にとって,ときおり出かける東京の地下鉄というのは,複雑怪奇な迷路のように思えます。東京の人々が,迷うことなくそれらを乗り継ぎ,目的地まで行けるというのは,不思議なことのように思えます。だから入り組んだ地下鉄路線の隙間に,「すうっ」と,異界へとつながる階段があっても,もしかするとけっして不思議なことではないのかもしれません。それから,東京の地下鉄には,ときおり妙に狭い小さな駅があるな,と思っていましたが,この本を読んで,了解しました。

 まとまった感想というより,思いついたよしなし事を書き連ねたような感じになってしまいましたが,おそらく,本書の内容がわたしの心のどこかに深く触れる内容だったせいなのかもしれません。だから,物語の構成とか技巧とかいったことには,あまり触れる気がしません。ただ最後のみち子の行動は,ちょっと唐突だったように思えます。

97/06/22読了

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