赤江瀑『巨門星』文春文庫 1990年

 副題に「小説菅原道真青春譜」とつけられているように,9世紀の平安時代,政治家にして文人,のちに「学問の神様」と崇敬される菅原道真の誕生から青春時代までを描いた歴史伝奇小説です。朝廷内部で繰り広げられる陰湿な政争を背景に,道真の周囲で起こる,さまざまな怪異で不可思議な事件。輿の中から消え失せた女官,風のごとく現れそして去る偸盗,文徳帝の不可解な死,応天門の焼失,道真とうり二つの人物の跋扈・・・。それらの背後には,宮廷での陰謀術策に加え,平安京の闇の中に蠢く,いわれなき罪科を負って死んだ貴人の末裔の影が見え隠れする。そして道真との因縁深いつながりが・・・

 「巨門星」とは北斗七星の星のひとつで,東洋の占星術・宿曜によれば,丑年と亥年生まれの人の守護星だそうです。道真は丑年生まれで,彼の守護星になります。ちなみに今年(1997年)も巨門星の年です(笑)。

 赤江瀑の,絢爛にして淫靡,狂気と幻想の入り交じった世界が好きです。ただこの人は,短編にその本領を発揮しますので,長編もいくつか読みましたが,短編に比べると,やや緊張感に乏しい,という印象が拭えませんでした。
 この作品は,おそらく作者のなかで一番長い作品ですが,そういった先入観があったせいで,積ん読状態にあること,じつに7年が経ってしまいました。で,思い立って読んでみましたが,なかなかおもしろく読めました。この作品には,作者の駘蕩とした作風が生きているようです。もちろん,読み手側の意識の変化(長編に対する忍耐力の増大?)もあるのでしょうが・・・

 物語は,道真の成長を追いつつ,怪異な事件を織り交ぜ,ミステリアスに進みます。とくに怪異な事件の場に香る幻の香「曙」が,物語に一種独特の雰囲気を与えています。そういえばこの作者,「香」をあつかった短編もいくつかあったのではないでしょうか。また時の権力者藤原良房の陰謀術策を,直接には描かず,周りの人間の眼を通して描くことによって,その深慮遠謀,老獪さ,したたかさを,うまく浮かび上がらせているように思います。
 逆に老いて病に伏した良房に,その息子基経「唐の国の秘薬」を飲ませようとする場面もまた,秀逸です。先に不可解な死を遂げた文徳帝に,同じ薬を良房が飲ませたことが,基経により独白され,この「秘薬」が毒薬であることを明記せずに,読者に真相を想像させるあたり,うまいなと思いました。そして同時に,息子が父親を毒殺しようとする,宮廷内部の闇の奥深さをかいま見せます。けっしてあからさまにせず,いくつかの「含み」をもたせて真相を描くところが,この作者の魅力のひとつなのでしょう。

 ただ物語は,いよいよ道真が政治の表舞台,陰謀渦巻く宮廷世界へと入る直前,また道真と因縁浅からぬ闇のものたちの正体の一端が明らかにされるところで,終わってしまいます。なんだか「壮大なる王朝伝奇絵巻」の序章といった感じです。作者があとがきで,「長くつきあっていく」と書いてますが,おそらくいまのところ書かれてはいないのではないでしょうか? ぜひこの続き,というか,「本章」を読みたいものです(もし,続編をご存じの方がおられたらご一報ください)。

 なおこの物語には「ミステリ的謎」がいくつか出てきますが,必ずしもすべてが「ミステリ的解決」を迎えませんので,その点,ご注意を(笑)。

97/04/04読了

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