清水義範『上野介の忠臣蔵』文春文庫 2002年

 「この国では時々,大衆が裁判所よりも先に判決を下すことがあるのだ」(本書より)

 “赤馬の殿様”の通称で領民から慕われ,また高家筆頭として幕府から重んじられる吉良上野介義央。ところが運命の元禄14年3月14日,隠居を目の前にして,最後の大仕事を無事に終えようとしていた彼の人生の歯車は大きく狂ってしまった。以来,復讐に燃える男たちの襲撃に恐れおののく日々がはじまった…

 人は,みずからに「やましいところ」や「後ろ暗いところ」があると,しばしば饒舌になる傾向があるようです。「やましいところ」「後ろ暗いところ」を隠すために,ことさらに相手を見下し,蔑ろにすることさえもあります。いわば自分の,根拠に乏しい「正当性」を,相手の「非」によって保証しようとするわけです(某超大国が他国に戦争を仕掛けようとするときに,似たような手触りを感じるのはわたしだけでしょうか?)。
 本編を読んで,巷間に伝わる『忠臣蔵』に対して,上に書いたような想いを得ました。つまり『忠臣蔵』とは,赤穂浪士赤穂義士と呼び変え,彼らによる吉良邸討ち入り=仇討ちの「正当性」を最初から前提とした物語だということです。仇討ち=正当という根拠付けは,言うまでもなく吉良上野介の「非」によって保証されます。討ち入り直前に起こる,浪士たちの苦労も,上野介が限りなく「非」であり「悪」であれば,その苦労は「悲劇」へと転化し,輝きを増します。それゆえに上野介は,いやらしく,傲慢で,卑怯で,若い浅野内匠頭をいたぶる因業爺で「なければならない」のです。
 そしてそれを求めたのは誰か? もちろん第一に,その仇討ちの正当性を強調する赤穂浪士たちであるわけですが,おそらくそれ以上に,そういった「物語」,単純で理解しやすく,なおかつ刺激的な「物語」を求める大衆だったのでしょう。そして冒頭に引用した文章を見るとき,しばしば現代の裁判所で語られるセリフ−「被告はすでに社会的制裁を受け…云々」を思い出させ,『忠臣蔵』に求められた「物語」が,けっして過去のものではないことを語っているように思えます。

 ところで,「斜に構える」という言葉があります。国語辞典によれば,「普通でない気取った態度」と解説されています。少なくとも褒め言葉ではありません。しかし,とわたしは思うのです。「普通」とは,どれほどに絶対的なものなのでしょうか? 「普通」とは,大勢の人間がすること,考えることです。けれども大勢の人間がすること,考えることが,つねに正しいとは限りません。「普通」とされる「軸」は,時代や地域はもちろん,しばしば気分や流行りによってさえ変わってしまう類のものです。
 パロディやパスティーシュが持つ「効能」のひとつは,そんな「普通」と呼ばれているもの,つまりは「常識」を「斜に構える」ことで揺さぶり,それがけっして絶対普遍のものではなく,別の視点もあることを提供することではないかと思います。そしてそれはときに「斜」とされた「軸」の方が,多くの人々が「普通」と考えている「軸」よりも,まっとうで,正当な場合さえもあるでしょう。

 『忠臣蔵』という,毎年年末になれば,どこかの放送局で必ずと言っていいほど放映される「物語」を,まったく別の角度から,それこそ「斜に構えて」描いた本作品は,パロディ・パスティーシュを得意とするこの作者の力量が,十二分に発揮された作品となっています。

02/10/20読了

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