小池真理子『恋』ハヤカワ文庫 1999年

 1972年,浅間山荘事件が終結した日と同じ日に起きた猟銃による射殺事件。10年の服役を終え,癌で死の床にいる“犯人”・矢野布美子は,ノンフィクション・ライタ鳥飼三津彦に語り始める。彼女が殺人を犯した経緯を・・・そして片瀬信太郎・雛子夫妻との不可思議で官能的な“恋”の物語を・・・

 第114回直木賞受賞作品の文庫化です。

 「官能」という言葉を辞書でひいてみる,「視覚・聴覚・味覚などの感覚が起こす器官の働き」「性に関する器官の働き」という風に書いてあります。昨今ではもっぱら後者の意味合いで使われる場合が多いように思われますが,セックスだけでなく,より広い肉体的な感覚―とくに快楽・愉悦―を指す言葉なのでしょう。
 本書で語られる,主人公矢野布美子と,片瀬信太郎・雛子夫妻との生活は,まさに,そういった意味での官能的な世界と言えます。そこにはたしかに性的な意味での「官能」も多分に含まれますが―布美子と信太郎,信太郎と雛子,雛子と副島・半田,布美子と雛子などなど―,それとともに,食事のシーンがじつに多く出てくるように思いますし(雛子の得意料理が「豚の角煮」で,信太郎が「彼女はこいつを人に食わせて,おいしいと言わせるのが生きがいなんだ」と評するところは,雛子の「官能性」を象徴的に表しているように思います),また彼らが1970年の夏を過ごした軽井沢の情景の綿密な描写―さまざまな樹々や草木,肌を焼く太陽の光とそれを醒ます高原の冷風などなど―は,作中人物たちが肉体で感じる「官能」以外のなにものでもないと思います。
 布美子は,片瀬夫妻とともに,その官能の世界にどっぷりと浸ります。そこには,モラルや倫理,道徳といった「精神」の領域が入り込む余地はありません。逆に「精神」が入り込まないがゆえに,「官能」はより純粋になり,透明になっていくのかもしれません。

 しかしそんな純粋な「官能」の世界に,「恋」というものが入り込んでくるとき,その世界は崩壊していきます。電機店の従業員大久保勝也と雛子との「恋」は,それまで描かれてきた「官能」とは,明らかに異なります。雛子が副島や半田と性交渉を持つことに寛大であった信太郎が,雛子と大久保との「恋」―それもきわめてプラトニックな「恋」―にヒステリックな暴力的な拒絶を示すのは,「官能」と「恋」とが,似て非なるものであることを敏感に察知するからでしょう。
 「心身二元論」みたいな図式は個人的にはあまり好きではありませんが,少なくとも信太郎にとっては,そんな図式が色濃くインプリンティングされていたのかもしれません。「官能」ならば許せるが,「恋」をするのは自分とののみ,信太郎にはそんな信条があったのでしょう。
 ならばなぜ布美子は殺人を犯したのか? 勝也を殺さねばならなかったのか? 彼女もまた,信太郎と雛子に「恋」をしていたはずです。信太郎と雛子が与えてくれる「官能」に「恋」していたのです。「官能」を引き裂く「恋」と,「官能」を受け入れる「恋」。信太郎と雛子が発する強力な「官能」の磁場をはさんで,布美子と勝也は鋭く対峙したのかもしれません。だからこそ,彼女は引き金を引いたのでしょう。
 おそらくは,勝也と雛子の「恋」の方が一般的には認められ,受け入れられるものなのでしょう。信太郎との「官能」と線引きされた「恋」や,布美子の「官能」への「恋」よりも,はるかに「ノーマル」なものなのでしょう。しかし「ノーマル」であることは,必ずしも「単一」であることは意味しません。「ノーマル」はあくまで「多数」でしかないのです。雛子と勝也の「恋」,雛子と信太郎との「恋」,布美子の「恋」・・・同じ言葉で表されるものであったとしても,そこには微妙な,あるいは相反する意味合いが込められ,それらのベクトルの違いが,ときに本書で描かれるような破局を引き起こすこともあるのでしょう。

 「恋」という,きわめてシンプルな言葉―タイトル―に含まれているもの,それは言葉ほど単純なものではないのでしょう。

98/05/05読了

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