篠田節子『絹の変容』集英社文庫 1993年

 偶然手にした“虹色の絹”に魅せられた長谷康貴は,女性生物学者・有田芳乃の協力と友人・大野からの資金援助を得て,稀少な野蚕の量産を目指す。バイオ・テクノロジィによって改変された蚕は,彼らの思惑通り,“虹色の絹”を産み出すが,それは恐るべきモンスタの誕生をも意味していた・・・

 かつて,もう20年くらい前になりますが,父方の親戚が養蚕業を営んでおり,子どもの頃,蚕を飼う小屋に一度だけ入ったことがあります。薄暗い小屋の中は,むぅっとする温気と,桑の葉の濃密な匂い,そしてシャワシャワ,シャクシャクという蚕が桑の葉を囓る音で満ち溢れていました。蚕棚のひとつひとつに納められた何千匹,何万匹の芋虫,変態を遂げることなく熱湯の中で煮殺される蛹たち,たとえ成虫になっても,羽が捩れけっして飛ぶことのかなわない小さな虫たち・・・
 はるか昔,大陸の東端と西端とを隔てる炎熱の砂漠を渡って取り引きされた高級工芸品“絹”を産みだすためには,人はじつに残酷になれるものなのでしょう。絹の持つ美しさ,妖しさ,しっとりとした手触りには,そんな小さな虫たちの哀しみと怨みとが溶け込んでいるのかもしれません。あるいはまた,この哀しい虫を「天の虫」と呼んだのは,人間の罪滅ぼしであるとともに欺瞞なのかもしれません。

 さて,本書を読んでいる途中での率直な感想は,
うぎゃぁぁ!!!
であります(笑)。わたしは,小さな虫たちが,数えきれぬほどの数で,グチョグチョ,ゾロゾロ,ぬたぬた,ぞわぞわするのは,もう想像しただけで鳥肌が立つくらい苦手です。ですから,バイテクによって巨大化,肉食化,凶暴化した蚕たちが,林の中の樹木にびっしりたかっている図など,もうたまりません。「蚕」という文字が,突然もぞもぞと動き出すんじゃないか,という妄想にとり憑かれ(<ちょっと誇張(^^ゞ),「果たして,読み終えることができるだろうか?」と心配になりました。それでも,どうにかこうにか読み終わってみると,「それなりにおもしろいじゃないか」という結論に落ち着いてしまうのですから,人の心は不思議です(<なに言ってんだか!)。

 少々身も蓋もない言い方かもしれませんが,この作品は,「バイオ・ハザード」によるパニックを重厚な筆致で描き出した,この作者の秀作『夏の災厄』のプロト・タイプのような作品ですね。
 人間の欲望が生み出した“異形の生命”が,そのコントロールを離れ,人間に牙をむき出すというシチュエーションは,蚕と日本脳炎という違いはあっても,きわめて類似したものではないかと思います。また,その“異形の生命”自体が引き起こす恐怖だけでなく,その「災厄」に対応する人間側のパニックや過剰反応を描いているところもよく似ています。いや,本書では枚数の関係で十分に描けなかった,それら人間の対応を,精緻に描き込んだのが『夏の災厄』なのかもしれません。
 しかし,ストーリィ・テリングとしては後出の『夏の災厄』に軍配が上がるとしても,美しい絹と,それを産みだすグロテスクな容貌の蚕,バイオ・テクノロジィといった,それぞれ異なるイメージを結びつけ,不気味な物語世界を作りだしている点では,こちらの作品もけっしてひけをとらないのではないかと思います(絹が人間にとって異種蛋白質であり,アレルギィを起こすこともあるというところに目を付けたのも秀逸ですね)。

 なおこの作品は,第3回小説すばる新人賞受賞作であり,この作者のデビュウ作だそうです。

99/01/08読了

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