藤沢周平『隠し剣孤影抄』文春文庫 1983年

 8編の「剣客」と「秘剣」を描いた連作短編集。掲示板によく書き込んでくださる石井亮一さんからのご紹介です。

 江戸時代の武士というのは考えてみると不思議です。武士とはその名の通り「武」を司る者です。「政治」と「武力」とが限りなく近い乱世において武士は生まれました。しかし,武士が支配する江戸時代は,その大部分を平和と安寧のうちに過ぎていきます。平和の時代において,「政治」と「武力」はしばしば乖離し,矛盾し,ときに対立します。その本質を「武」に置き,建前上,賞賛されながらも,その一方で「政治」を前にして,忌避され,抑圧されることもある――江戸時代の武士とは,そういった矛盾と軋轢,哀愁を宿命的に抱え込んでいるのかもしれません。本作品集の8編にはいずれもそんな雰囲気が漂っているように思います。

「邪剣竜尾返し」
 赤倉不動のお籠り堂で,檜山絃之助は,とある人妻と昵懇になるが…
 ストレートな「決闘もの」といったところでしょうか。全作品を読み通してみると,ストーリィ的にも,いまひとつひねりが足りず,また「秘剣」も,ちと精彩に欠くように思われます。
「臆病剣松風」
 剣豪と聞いて結婚した満江だが,夫の臆病な姿に失望し…
 一見ひ弱そうに見えてじつは…というところは,比較的オーソドックスな設定ですが,それ以上に,この作品を味わい深いものにしているのは,妻の満江が,それを知っても,「臆病な夫」に母性的な愛を感じる姿を描き出していることでしょう。
「暗殺剣虎ノ目」
 父を斬殺したのは,藩主お抱えの「お闇討ち」と聞いた達之助は…
 父親の死を契機として浮かび上がる藩政の「闇」,その「闇」を垣間見た達之助志野の姉弟。その「闇」に関わってしまった怖さがじわりと滲み出てくるラストは秀逸。
「必死剣鳥刺し」
 諫言により,一時藩政から遠ざけられた三左エ衛門は,意外にも藩主の警護を命ぜられるが…
 政治的策謀に翻弄されるひとりの剣客の無惨な姿を,巧みなプロットと語り口で描き出しています。冒頭で書いた「政治」と「武」との軋轢をもっとも鮮明に浮かび上がらせた1編といえるかもしれません。
「隠し剣鬼ノ爪」
 因縁浅からぬ相手の討ち手をまかされた宗蔵は…
 「秘剣」への執着のため破滅していく剣客の姿が哀愁を誘うとともに,その「秘剣」を効果的に用いて,カタルシスを醸し出すラストは巧いですね。この連作のメイン・モチーフである,「秘剣」あるいは「秘伝の技」の扱い方が,もっとも凝った作品です。本集で一番楽しめました。
「女人剣さざ波」
 冷えた夫婦関係から逃れるため茶屋遊びをはじめた俊之助に,思わぬ密命が下り…
 奥さんのキャラクタ造形など,いかにも時代劇に出てきそうな「夫婦の情愛物語」ですが,そこに藩内の権力抗争と「秘剣さざ波」を絡めることで,緊迫感あるストーリィに仕上げています。ラストの一文が,主人公の心持ちを十二分に伝えています。巧い。
「悲運剣芦刈り」
 兄嫁と道ならぬ関係に陥った男には,しかし,祝言を約した女性がおり…
 こういう風に評してしまっていいのかどうかわかりませんが,ハードボイルドなクライム・ストーリィのような手触りを持った一編です。袋小路のような関係を続ける男女にいかなる結末が待ち受けているのか,という緊張感がたまりません。
「宿命剣鬼走り」
 果たし合いの末に死んだ息子。だがその果たし合いに疑問を持った父親は…
 仕事ばかりで家庭を顧みない父親,孤独感のため子どもたちに不必要なまでに干渉する母親,崩壊していく家族・・・舞台こそ「時代劇」ではありますが,この作品で描き出される「家庭の悲劇」は,どこか現代のそれと響き合うものがあるように思います。

00/09/21読了

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