エドワード・D・ホック『怪盗ニック登場』ハヤカワ文庫 2003年

 「価値のないもの」「珍しいもの」しか盗まない泥棒ニック・ヴェルヴェットを主人公とした短編12編を収録しています。日本オリジナル編集のハヤカワ・ポケット・ミステリの文庫化です。

 ファンにとっては「釈迦に念仏」でしょうが,本格ミステリのもっともオーソドクスな“謎”といえば,「フーダニット(犯人)」「ハウダニット(トリック)」「ホワイダニット(動機)」です。ユニークな泥棒の活躍を描いた本シリーズも,作者が本格ミステリ短編を得意とする作家さんだけに,そんな“謎”がちりばめられています。もちろん“犯人”はニックですから,基本的には「フーダニット」は成り立ちません。しかし,それに代わって「ハウダニット=ニックがいかに盗むか?」の妙味が味わえ,さらになんと言っても,「なぜ依頼者は,そんな「価値のないもの」を盗むよう依頼するのか?」という「ホワイダニット」が強烈な牽引力となって,ストーリィを引っ張っていきます。またときに,ニックの盗み以外の犯罪を絡めることで「フーダニット」を加味する作品もあります。それゆえ,スタイルこそ異なるものの,本格ミステリ的なテイストがたっぷり詰まったシリーズとなっています。
 気に入ったエピソードについてコメントします。

「真鍮の文字」
 とある会社の名前を書いた文字を盗むよう依頼されたニックは…
 盗んだ文字が「S・E・X」,残った文字が「A・T・O・M」と,いかにも意味ありげだけに,いろいろと「盗む理由」に推測をめぐらせたのですが,その真相がじつにユニークで,びっくり。またニックの“天敵”ともいえるウェストン警部補を配し,盗む場面でのサスペンスを高めるとともに,さらに警部補の存在を巧みに利用して,鮮やかに幕を引くところはうまいですね。一番楽しめました。
「大リーグ盗難事件」
 野球好きの某国大統領のために,大リーグ球団ひとつを盗むことになり…
 上で書いたような「ホワイダニット」が中心となった作品。この作者の作品には,しばしばこういった「奇妙な動機」が出てくるのですが,そのあたり泡坂妻夫の短編を連想してしまうのは,わたしだけでしょうか?
「カレンダー盗難事件」
 刑務所の独房の壁に掛かった,何の変哲もないカレンダー。それに隠された秘密とは?
 この作品の魅力は,ふたつあると思います。ひとつは独房のカレンダーを盗むシーンにおける小気味よさ,そしてもうひとつは,そのカレンダーの秘密から生じるサスペンス。個人的には前者の「ハウダニット」が楽しめました。
「陪審員を盗め」
 話題となった殺人事件の裁判。その陪審員を盗めという依頼が…
 陪審員を盗む理由,殺人事件の真相…それぞれがひねりを利かせており,加えて,前出のウェストン警部補を絡めることで,各パーツのコンビネーションがじつに巧みな作品になっています。とくに「なぜ殺された女性は迷路の中で30分も迷ったのか」(<ネタばれ反転)という謎を,ミスディレクションとして上手に使っているところはいいですね。
「皮張りの棺」
 「獲物」の棺は,ニックの目前で強奪され…
 ニックの「盗み」が,別の犯罪のための「おとり」として利用されるというパターンは,「価値のないものを盗む」という基本設定では,一番,馴染みやすいものです。本編もそのパターンに近いながらも,そこにもう一工夫しているところが楽しめます。
「からっぽの部屋」
 今回の依頼は,空っぽの部屋から「あるもの」を盗んでくれというものだった…
 「盗むものがない?」という,泥棒テーマの本シリーズとしては,かなりトリッキィな1編となっています。即物的とはいえ,丁寧に引かれた伏線が光っています。
「カッコウ時計」
 あるカジノ・クラブの事務所に掛けられたカッコウ時計には…
 この作品や,前作「くもったフィルム」は,ハリウッドやラスヴェガスのショー・ビジネスを扱っていますが,ストーリィ的にはきっちりとした本格ミステリを踏まえながらも,そこにショー・ビジネス特有の哀しさを織り込むことで,ひと味違う読後感を与えます。
「将軍の機密文書」
 将軍が毎朝捨てるゴミの袋を盗んでほしいと依頼され…
 ウォーターゲート事件が絡んでくるあたりが,時代性を感じさせます(事件発覚の「2年後」という設定のようですが)。ニックが,わずかな手がかりから推理を繰り広げていくところが小気味よいですね。また結末は,作者のウォーターゲート事件に対する批評にもなっているようです。

03/05/30読了

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