小林信彦『怪物がめざめる夜』新潮文庫 1997年

 放送作家の「私」が,仲間とともに作り上げた架空のコラムニスト「ミスターJ」。評判を呼んだ「ミスターJ」の真相に迫るマスコミから目をごまかすため,「私」は無名の芸人・神保登に,その役割を振りあてたのだが・・・。「私」たちの思惑を逸脱して,独走し始める神保。深夜放送のラジオでのトークで,若者たちの熱狂的な支持を受けた神保の標的は「私」たちに向けられる・・・。

 この作品では,「神保登」という「怪物」と,彼のカルト的な魅力に熱狂し,過激な行動をとる「神保の分身」としての大衆=「怪物」という,2種類の怪物が描かれています。主人公の「私」は,彼ら「怪物」に脅威にさらされる被害者として,設定されています。そして「怪物はどこにでもいる」と恐怖します。しかし本当に「私」は被害者なのでしょうか? 架空の超人的コラムニスト「ミスターJ」を創り出すとき,「私」は「内なる権力志向」の存在について触れています。もともと「ミスターJ」のなかに,さらにはそれを創り出した「私」のなかに,のちに「神保登」が具現する「怪物」としての性格があったのではないでしょうか? 「神保登」に「怪物」というレッテルをはり,「私」が被害者となれたのは,「神保登」の怪物性ゆえにではなく,「私」たちと敵対するがゆえに,だったからではないでしょうか? もし,「神保登」が「私」に敵対せず,異なる対象に攻撃を仕掛けるならば,「私」もまた「怪物」と同じ立場に立つことなったのではないでしょうか(既成の物語に「IF」をつけてもあまり意味がないかもしれませんが)。つまりこの物語の「神保登」と「私」は,加害者対被害者という関係ではなく,いわば「同じ穴の狢」ではないでしょうか? たしかに扇動的なカリスマ,熱狂し盲信する大衆,マスメディアを通じての特定個人(あるいは特定集団)への攻撃,といった恐怖は,古くはヒトラーのナチス,近くは某宗教団体のようにリアリティをもってあるわけですが,「私」が感じている恐怖は,「同じ穴の狢」同士のいがみ合い,争い程度にしか見えません。にもかかわらず,「私」を被害者として,みずからの内なる「怪物」に無自覚で,「怪物」を自分の外側に置こうとする描き方には,なじめない,白々しさ,いやらしさを感じてなりません。

 学生時代,『唐獅子株式会社』シリーズや,『ちはやふる奥の細道』などに,けっこうはまっていた作家だけに,残念です。

97/03/05読了

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