隆慶一郎『影武者徳川家康』新潮文庫 1993年

 天下分け目の関ヶ原合戦。その最中に徳川家康は暗殺されていた! 10年以上,影武者として付き従った世良田二郎三郎は,周囲の思惑から本物の「家康」に仕立て上げられる。しかし「道々の者」として,なによりも自由を愛する彼は,征夷大将軍として自らの道を歩き始める。そしてそれは,二代将軍・秀忠との果てることのない暗闘の始まりだった・・・

 とにかく筋運びがなんとも巧いです。文庫版で全3巻,総1600ページに及ぶ大作ながら,2日間,ひたすら作品に没入しながらページを繰っていました(「寝食を忘れて」という,よく言われる,しかし少々大仰な言い回しを,実際に体験しました(笑))。
 21世紀,じつに気持ちのよい読書生活のスタートをきることができました。

 作者は,物語を,事態の発端である関ヶ原における家康暗殺シーンから始めます。主人公世良田二郎三郎がどういう人物なのか,どのような経緯で家康の影武者になったのかといった説明はいっさいはぶき,突如,東軍の総大将とならざるを得なくなった二郎三郎とともに,読者を合戦の渦中へと投げ込みます。まさに「つかみ」として抜群の効果をもったオープニングと言えましょう(合戦が東軍の勝利で終わったのち,二郎三郎の半生が回想という形で描かれますが,その点については後述します)。
 さらに大事な合戦に遅参するという大失態を演じた徳川秀忠や徳川方の政権維持の思惑から二郎三郎は,本物の「家康」として生きることを余儀なくされます。しかし,それも秀忠の将軍襲名までの命。それに対して,家康暗殺を命じた豊臣方の島左近,暗殺の実行者甲斐の六郎が,豊臣秀頼安泰を目的とした,二郎三郎支援へと展開させていきます。このあたりの展開は,元の敵方が独自の目的から味方に回るという痛快感とともに,「なぜ二郎三郎は家康を演じ続けたか」という,その後の物語の展開に力強い説得力を与えています。

 物語の中盤以降は,二郎三郎と秀忠との暗闘がメインとなっていきます。ここで主人公のキャラクタ設定が活きてきます。世良田二郎三郎は,「上ナシ」をモットーとする,「道々の者」です。また影武者になる前は,一向一揆に身を投じ,一時は織田信長狙撃を試みた「いくさ人」として設定されています。それゆえ彼の本質は「自由」であり,「非権力」「反権力」にあります。そんな彼が,征夷大将軍という,当時の権力の頂点に立つわけですから,そのミス・マッチさ,アンバランスさだけでも十二分に面白いところへもってきて,さらに徳川秀忠という,二郎三郎の対極とも言える,ガリガリの権力亡者をその相手として配置するわけですから,両者の間には,スリリングな「政治ドラマ」が繰り広げられます(ただ秀忠のキャラクタが,ややカリカチュアされすぎている気配もあります。まぁ,歴史上,家康&秀忠コンビでやったとされる権謀術数を,秀忠ひとりでやったことにしなければならないわけですから,しょうがないのでしょうね)。
 さらに,そこはやはり「時代小説」,その政治的闘争劇の「裏側」として,忍者群の血で血を洗う暗闘を絡ませることで,ストーリィに躍動感を与えています。二郎三郎方の甲斐の六郎や風魔一族,対するは裏柳生と,「時代小説若葉マーク」のわたしでさえ,その名を知っている「ヒーロー」たちが,あの手この手で戦う様は手に汗握るものがあります。わたしは,駿府城下に「町」をでっち上げ,そこに柳生忍群をおびき寄せるところが好きですね。その戦いに,表柳生柳生兵庫助を登場させて,非情な,しかし哀切感みなぎる仲間同士の戦いとして描いているところは,心憎いばかりの配慮でしょう。

 そしてクライマクスは「大坂の陣」です。こういった伝奇的な時代小説で難しいところは,現実の歴史との整合性をどのようにはかるか,というところにあります。作中では,家康=二郎三郎は,江戸と大坂との共存関係を模索します。しかし実際には,大坂冬の陣・夏の陣において,豊臣氏は滅亡し,家康と秀忠による徳川政権の基礎は盤石のものになります。そのフィクションと現実とのギャップをどのように処理するか? その処理に失敗すると,ラストがどうしても尻すぼみにならざるをえず,違和感が残ってしまいます。そこらへんが作家さんの力量と言えましょう。
 この作品の場合,途中に松平忠輝をめぐるエピソードや,大久保長安の汚職,キリシタン弾圧などを絡め,さまざまな迂回路をめぐりながら,二郎三郎の意図通りに物事が進んでいかない状況−大坂冬の陣の勃発−を上手に創り上げています。その状況に,二郎三郎の「老い」や「限界」を,冷徹な視点で挿入することによって,スムーズにフィクションと史実とのあわいを埋めています。

 この作家さんの,自分の想いを「物語」の中で存分に語り得る卓抜した技量には,心底,感服しました。

01/01/02読了

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