池宮彰一郎『事変 リットン報告書奪取セヨ』新潮文庫 1995年

 昭和6年(1931),満州事変勃発。「満州国」建設へと狂奔する関東軍を抑止するため,ひとつの奇策が発案された。事変の調査のため,国際連盟より派遣されたリットン調査団の報告書を事前に入手,その内容を関東軍に示すことで,満州国建設の無謀さを知らしめようとするのだ。そして計画実行のため,“ある集団”が満州へと向かう・・・

 歴史ミステリや歴史冒険小説のおもしろさのひとつに「ミスマッチ」があるのではないかと思います。ある歴史上の事件と人物との思わぬ関係,あるいは歴史的人物同士の意外な結びつき,はたまた歴史の周辺に埋もれたアウトサイダの活躍などなど,そんな教科書的な歴史の「常識」をひっくり返す「ミスマッチ」こそが,この手の作品の醍醐味とも言えるかもしれません。

 本編の主題は,それこそ教科書には必ず出てくる満州事変リットン調査団国際連盟からの脱退という,日本が日中戦争・太平洋戦争の泥沼へと足を踏み入れていく昭和の歴史です。その昭和史を,この作者独特の冷徹な視点で描いていきます。外交上のチャンネルを失った国家は,国家間の対立・紛争を解決するためには武力に頼らざるを得なくなる−それは,一時期の北朝鮮を取り巻く状況に思いを馳せるとき,近現代史の重要な定理なのでしょう。
 ところで,戦前の軍隊の暴走が「統帥権」の拡大解釈によって進行したことは知っていましたが,「関東軍司令部条例」というのは凄いですね。近代国家下の軍隊のありようとはとても思えません。やはり陸軍の創設者山県有朋の肥大化した権力欲の賜物なのでしょうかね?

 さて作者は,そんな「表の歴史」の中に,「関東軍解体計画」「リットン報告書奪取計画」という,ふたつの密謀を設定します。そしてその実行集団として選ばれたのが,なんと「掏摸集団」深井吉五郎率いるプロの“職人集団”です。歴史の大転換期という大舞台の影で活躍するアウト・ロウ集団・・・まさに冒頭に書いたような,この「ミスマッチ」の痛快さこそが,本編の最大の魅力となっています。そしてそのプロ集団が,警戒厳重な調査団から,いかにして報告書を奪取する,それも単に奪うだけでなく,相手に情報が漏洩したことを悟られないように盗むか,が,サスペンスを盛り上げます。とくに作戦の第2弾,走行中の列車から文書を奪取する計画は,『ルパン三世』もかくや(笑)という奇想とスピード感があふれるものです。

 そして本作品のもうひとつの眼目は,そんな奇想天外な作戦が,表舞台の歴史とどう絡むか,というところにあります。国際連盟を脱退しないことを確約して出発した松岡洋右は,なぜ前言を翻して国際連盟を脱退したのか? この近代日本の分水嶺となった歴史的事件の「謎解き」に,この「作戦」を絡めていきます。このあたり,歴史ミステリとしはおもしろいのでしょうが,ややストーリィ展開がフラットになってしまっており,「書き急いでいる」みたいな印象もあります。またその結果,作品全体の焦点がぼやけてしまっているようにも思えます。個人的にはもう少し躍動感がほしいところです。
 そのあたりにやや難があるものの,歴史の裏面をユニークな視点から描き出した歴史冒険小説として楽しめる作品でした。

02/09/08読了

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