朝松健『邪神帝国』ハヤカワ文庫 1999年

 ナチス,あるいはヒトラーと黒魔術とのつながりは,オカルティズムの方面では有名な話だそうですが,この作者は,さらに「クトゥルフ神話」を絡ませます。ヒトラー生誕の秘密から,第三帝国崩壊まで,いろいろな場面でのクトゥルフ・ホラー,7編を収録した連作短編集です。巻末に付せられた「魔術的注釈」はマニア垂涎?(笑)

「“伍長”の自画像」
 “わたし”は,場末のカクテル・パブで出会った貧しい画学生・平田のエキセントリックな発言に興味を覚え…
 他の6編は,直接,ナチスあるいはヒトラーに関わった「過去」のエピソードでありますが,ヒトラーに関係しているとはいえ,この作品のみ唯一「現代」が舞台になっています。この作品を冒頭に持ってきたことは,作者が「あとがき」でも書いていますように,ナチスがもたらした「時代の狂気と悪夢」が,けして単なる「過去」のものでないという不安をも描き出す本集の意図に適った配慮と言えましょう。
「ヨス=トラゴンの仮面」
 日本から送り込まれた情報員・神門(ごとう)は,正体を見破られたことと引き替えに,奇妙な依頼を受ける…
 ゲルマン民族の故地と伝えられる楽園“トゥーレ”,その在処を知るための手がかり“ヨス=トラゴンの仮面”をめぐる争奪劇を描いています。しかし,そんな人間の欲望の末に,それを凌駕する恐怖がもたらされるところが,「クトゥルフ神話」の真髄なのでしょう。ところで,「ヨス=トラゴンの仮面」ってアイテムは,この作者のオリジナル?
「狂気大陸」
 南極大陸にあると伝えられる楽園“ノイエス・シュヴァーベンラント”へ派遣された軍人たちが遭遇したものとは…
 クトゥルフ神話の原典である,H・P・ラヴクラフト「狂気の山脈にて」に,ナチスを絡めた作品です。作品全体が「それ」を目撃した人物の「手記」という形で進められている点も含めて,原典に対するオマージュの濃いエピソードとなっています。ちょっとオリジナリティに欠けるうらみもあります^^;;
「1889年4月20日」
 1888年,ロンドンを恐怖に陥れた殺人鬼“切り裂きジャック”。彼の犯行には隠された秘密が…
 不可思議なタイトルと“切り裂きジャック”ネタ,「ナチスとは関係ないのかな?」と思っていたところに,ラストで「なるほど」と思わせる作品です。手記や記録から構成されており,「切り裂きジャックの次の被害者は?」という後半の展開は,巧みにサスペンスを盛り上げています。
「夜の子の宴」
 ウクライナ侵攻途中,本隊とはぐれたドイツ軍の一団は,ルーマニアの山中で奇怪な伯爵夫人と出会う…
 ナチスとクトゥルフ神話を結びつけるのは,上に書いたように黒魔術との関係で,まぁ,わかるのですが,さらにそこにドラキュラ伯爵まで絡めてしまうのは,力業というか,遊びが過ぎるというか(笑)。伯爵夫人に操られ,しだいに狂っていく主人公の姿は迫力があります。
「ギガントマキア1945」
 第三帝国崩壊後,南米沖をひとり潜行するUボート。そこには“伝説(サーガ)”を名乗る奇怪な人物が乗っており…
 「クトゥルフ神話」に出てくる邪神は,地球上のあらゆる場所に潜んでいますが,海あるいは海中もまた,その重要な舞台のひとつでしょう。ナチス高級幹部の南米への逃亡という歴史的事実を織り交ぜながら,一種の「海洋綺譚」に仕上げています。
「怒りの日」
 「ヒトラー暗殺計画」に荷担するクラウスは,夜毎,奇怪な悪夢に苛まれ…
 クトゥルフ神話が描き出す世界は,たしかにフィクションです。しかし,何者に抗し得ない巨大な力(神話における「邪神」のような)がもたらす恐怖,災厄というモチーフは,けして虚構上の存在ではないのかもしれません。主人公が毎夜見る悪夢―『「あいつ」が来る!』―は,その姿を変え,形を変え,人類をつねにおびやかし続けているでしょう。クトゥルフ神話が,書かれ継がれ,語り継がれていく秘密も,そこらへんにあるのかもしれません。

98/08/13読了

go back to "Novel's Room"