澤木喬『いざ言問はむ都鳥』創元推理文庫 1997年

 植物学者・沢木敬が出会った,草花に関わる小さな謎。早朝,道に散らばる都忘れの花びら,駅で子供用の切符を買い続ける釣り人,火の気のない部屋で起きたぼや,咲いているはずのないサザンカの苗木をほしがる隣人などなど。彼の鋭い観察眼と友人・樋口の卓越した推理力が,日常の奥に潜む謎を解き明かす4編よりなる連作短編集。

 作者にとっては不本意かもしれませんが,こういった「日常的謎ミステリ」というと,どうしても北村薫を思い出してしまいます。だから比べての評言というのは,あまりしない方がいいんじゃないかと思うのですが,少なくとも北村薫がしばしば使う,持って回った言い回し,というか,含みのある表現よりも,ずっと読みやすかったです。それが第一の感想。

 では北村薫から離れて,感想をのべるならば,さまざまな植物を題材とし,一種独特の雰囲気があって,その点は楽しめなくはないのですが,どうも物足りない。どのへんが物足りないかというと,西澤保彦を読んだときの物足りなさに,感じが近いようです(けっきょく,ほかの作家と比べているね)。つまり探偵役の推理が,良くも悪くも抽象的で,妄想的な感じがするのです。小さな事柄から,いろいろと状況観察と論理で,その背後に潜む謎の全貌へと展開させていくパターンというのは,『九マイルは遠すぎる』に代表されるように,ミステリの一パターンなのかもしれませんが,この手のミステリは,(けっきょく好き嫌いでしかないのでしょうが)「検証無き仮説」を読まされているようで,「なるほど,そういうこともあるかもしれんな」という,一種の胡散臭さが感じられて,どうもいまいち楽しめないのです。

 それともうひとつ,気になったのは,物語は「ぼく」という一人称で物語は進むわけですが,探偵役の樋口が,「観察眼の鋭い沢木(=ぼく)が見落としているのはおかしい」みたいな指摘を何度かしていることです(第1編表題作と第2編「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」)。語り手の語る内容を,読者に対してなんの保証もせずに,こういった推理をするのは,ちょっとアンフェアなような気がしてしまいます。また逆に,第3編「飛び立ちかねつ鳥にしあれば」の,樋口に与えられていない情報のために,主人公が真相にたどり着く,という結末は,ひどく不自然に思えます。つまり1・2編では,沢木が見落としていることや描写していないこと(=与えていない情報)を手がかりとして,樋口が推理しているのに対して,第3編はその与えていない情報により,樋口は間違った推理(?)をしてしまう,というわけです。どうもそこらへんの,探偵役・樋口と「ぼく」=沢木の扱いの不統一感,首尾一貫性の無さが,物足りなさの一因にもなっているようです。沢木をワトソン役として徹底させるか,あるいは第三人称で描いた方が,よかったのではないでしょうか?

 まあ,身も蓋もない言い方をすれば,わたしが植物に対してあまり関心がない,ということもあるのでしょうが(笑)。

97/05/24読了

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