藤木稟『イツロベ』講談社文庫 2002年

 ボランティア医師としてアフリカの小国に派遣された間野は,そこで周囲の人々から畏れられる謎の部族ラウツカ族に出逢う。“禁断の森”で,この世ならぬ体験をし,帰国した彼を待っていたのは,不可解で奇怪な,そして残酷な“現実”だった。呆然と“現実”を彷徨う間野がたどり着いた,もうひとつの“現実”…それは?

 「“現実”はけっして一枚岩ではなく,多層構造をなしている」…そんな思いは,わたしたちの心のどこかに必ずあるような気がします。その一方,わたしたちはいまの“現実”を唯一のものとして受け入れ,その中で生きることを余儀なくされています。しかし,余儀なくされながらも,疎ましく感じることはあっても,目に見え,手に触れることのできる確固とした“現実”が存在することに安心感を覚えています。多層構造をなす“現実”,もうひとつの“別の現実”に対して,人は羨望と不安というアンビヴァレンツな想いを抱いているのでしょう。

 さて本作品では,そんな「多層構造」が,手を変え品を変え,全編にちりばめられています。たとえば物語の前半,主人公の間野祥一は,アフリカの小国,さらにその辺境で,奇怪な体験をします。「医師」という,いわば「近代科学の申し子」である彼にとって,ラウツカ族を中心とした呪術的世界,さらに“禁断の森”で目撃する異形の子ども“ル・ルイ”は,拒絶すべき,否定すべきものです。しかし彼は,その,近代科学とは異なるもうひとつの「世界」へと巻き込まれていき,あまつさえ,その「世界」の不可思議な力によって死の病から生還します。
 帰国した間野は,妻洋子と娘由美に出迎えられ,彼にとって安定し平和な“現実”を取り戻します。しかしアフリカで出逢った(?)女は,執拗に彼を追いつめ,彼が知るよしもなかった,もうひとつの“現実”を突きつけます。彼の“家族”が,嘘と偽りの上に成り立っていたことが暴露されます。さらに追い打ちをかけるように,彼の心の奥底から蘇るおぞましい記憶。忘却されていたはずのそれは,退屈だけれど穏和な「間野祥一」という人格の虚構性を暴き出します。
 またコンピュータ・ネットワークが産み出した“ヴァーチャル・リアリティ”は,主人公たちの次の世代=子供たちに,主人公たちが見,触れているものとは,まったく異なる“現実”を提供しています。またゲーム・ソフト「ゴスペル」の流行とは,分節化され,組織化された「言葉」の解体を示しているのかもしれません。
 「アフリカ」と日本(もちろんそれは作者によってデフォルメされたものですが),「平和な家族」とその根底にある「嘘と裏切り」,意識と無意識,“現実”と“ヴァーチャル・リアリティ”…間野の眼前に現れたものは,一枚岩と信じていた“現実”が,じつは幾重にも折り重なった多層構造物であり,それぞれの「層」が相互に浸潤し,融解し,異形化していく“現実”です。
 しかし作者は,これらさまざまな「多層構造」の関係を明示化することはありません。たとえば間野の記憶の多層構造と,“ヴァーチャル・リアリティ”とは,ストレートには結びつきません。似たような「構造」として,相互に共振・共鳴しながらも,必ずしも因果関係で結びつけられるわけではありません。むしろ「現実の多層構造性」が明らかにされ,それがさまざまな局面によって顕在化していることを示しているのでしょう。
 同時に,個々の現象の「結びつきの弱さ」は,この作者の本格ミステリ愛好者にとっては,おそらく「物足りなさ」「隔靴掻痒」といった感じで受け止められるのかもしれませんが,この作品の場合,「結びつきの弱さ」そのものが,「世界の多層構造性」と重なり合い,言いしれぬ不安感を醸し出すのに有効に働いています。
 「何かが変わろうとしている。しかし観察できるのは,その「何か」そのものではなく,その結果として表れる個々のばらばらの現象だけである」…そのようにして提示された「世界の変貌・崩壊」は,単純なカタストロフよりも,より不気味なものなのかもしれません。

02/08/14読了

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