柄刀一『ifの迷宮』カッパ・ノベルス 2000年

 出産前の遺伝子診断が一般化した近未来の日本。最先端の遺伝子医療企業・宗門家で殺人事件が発生した。しかも前日には,一度目撃された死体が消失するという奇怪な事件が起きていた。両者はどういう関係にあるのか? そしてまったく別人であるはずのふたりの人物から同一のDNAが検出され,事件は混迷を極める。さらに密室殺人までが・・・

 俚諺に「氏か育ちか」という言葉があります。今風に言い換えれば,人間の性格や才能,体質などは,遺伝的要因が強いか,環境的要因が強いか,ということでしょう。穏当な意見としては,人間は両者の混合物なのでしょうが,本作品では,そのうち「氏」の方に対する評価が肥大化した社会が舞台として設定されています。
 物語の前半,作者は,その舞台の有り様を,「胎児細胞利用法」制定を押し進める宗門グループと,それに反対するグループとの対立や,事件を追う刑事であるとともに,障害児斗馬(トーマ)の母親である朝岡百合絵の苦悩する姿と,彼らに対するいわれない差別を通じて,グロテスクに描き出していきます。その展開は,やや説明的な部分もあり,退屈な感がなくはありませんが,その執拗な描写が,物語の後半,事件の真相が明らかになるにおよんで,じつにアイロニカルな効果をあげています。作者の「あとがき」によれば,このような舞台は,ミステリ的仕掛けのためだけに設定されたとのことですが,たとえそうであっても,効果的な構成を物語にしっかり与えている点は,評価すべきでしょう。

 さて,ミステリでは,被害者の身元を不明にするために,さまざまなトリックが用いられます。首なし死体が出てきたら,被害者は作中で最初に想定された人物なのか,と頭から疑ってかかるのが「常道」とも言えましょう。一方,科学的捜査法は,指紋や歯形などによる個体識別の技術を発達させてきました。当然,ミステリの世界でもそんな科学捜査法の発達に対応して,その裏をかく「あの手この手」を開発してきました。
 この作品では,まったくの別人が同一のDNAを持っていると鑑定されたり,また殺された被害者の爪の間から,すでに死亡している人物のDNAが出てきたりと,現在のところ,個体識別のもっとも厳密な方法であるDNA鑑定法と矛盾する謎が提出されます。さらに土砂崩れで埋もれた密室から殺人者が姿を消すという謎も加わります。いわば「謎のてんこ盛り」状態で,果たしてどのような結末が待っているのか,という期待感が牽引力となってストーリィを引っぱっていきます。その謎解きそのものは,やや偶然に頼っており,また「知らないとわからない系」の部分もあるのですが,むしろそれを巧みにリンクさせ,アクロバティックな着地を見せているところは感心します。
 全体として,丁寧に作られた物語,という印象を持ちました。

 ただ,この作者の作品は,短編をいくつか読んだことがあり,長編ははじめてなのですが,文体にどうも読みにくさ,違和感を感じてしまいます。それが何に由来するのかは分析できていないのですが,なぜかわたしの読むリズムにうまく適合しないところがあります。なぜだろう?

00/07/09読了

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