菅浩江『アイ・アム I am. 』祥伝社文庫 2001年

 「生きていたい私が,ここにいる」(本書より)

 “私”の名前は“ミキ”。ホスピス治療で有名なエナリ病院で働く看護用ロボットだ。ところが,“私”の“心”には,ときおり淡い“記憶”が思い浮かぶ。この“記憶”はなにに由来するのか? あらかじめインプットされたデータなのか? それとも・・・

 エンタテインメント作品において,「先が読めてしまうこと」「結末が予想つくこと」は,欠点にこそなれ,長所になることはまずありません。なぜなら,エンタテインメント作品における重要な要素として,展開の不透明さ−「謎の真相はなんなのか?」「主人公の目的は達成できるのか?」「危機は回避できるのか?」などなど−が生み出すスリルとサスペンスがあるからです。
 しかし,「先が読めて」いながら楽しめる作品も,けっして多いとは言えませんが,まったくないわけではありません。本作品は,そんなごく少数のひとつ,ではないかと思います。

 物語は,看護用ロボット“ミキ”として,“私”が“目覚める”ところから始まります。彼女(?)は,最初は外科病棟,ついで小児病棟,最後にホスピス病棟へと,担当が変わっていきます。その間,さまざまな入院患者と巡り会いますが,それとともに,自分の“心”に思い浮かぶ“思い出”に戸惑います。あるいはまた,幼くして不治の病に罹った少女の母親の嘆きや,老化のため痴呆になっていく老婆の姿を前にして,まるで「人間」であるかのように,“動揺”し“困惑”する自分に驚きます。
 このようなストーリィ展開の中で,おそらく多くの読者は,この物語の構造,端的に言って“私”の「正体」に気づくのではないかと思います。とくに“ミキ”の先任者(?)“ジロー”の「正体」が明らかにされる時点で,その予想はかなりの確度を増すでしょう。ですから“私”の正体の意外性を「売り」にする作品であれば,成功しているとは,とても言えない作りになっています。

 しかし作者の眼目は,その「正体の意外性」にあるのではない,と思います。いやむしろ,「予想させる正体」が浮かび上がらせる「せつなさ」が,それまでに描かれるエピソードに与える効果を狙っているようにさえ思えます。
 たとえば,呆けていながら肉体的には元気のいい老人の姿を見て,幼くして死を運命づけられた少女の母親は,その不条理さ,不平等さを嘆きます。“私”は,そんな彼女を前にして「幸せだった記憶は残ります」と慰めます。あるいはまた「人間未満」「人間崩壊」を目の当たりにして,みずからを「偽善者」と呼びます。これらのセリフや自己認識は,“私”の「予想される正体」の哀しみを暗示しています。
 つまり,“私”が目撃するさまざまな「生と死」・・・ときに不条理で凶暴な「死」に翻弄される「生」の姿を,ときに「死」を目前に控えて貪欲に「生」を求める姿は,“私”が抱え込んでいる(であろうと予想される)「生と死」の「哀しみ」と「せつなさ」と響き合っているのです。

 結末に用意されている「せつなさ」を読者に「先取り」させることで,個々のエピソードの持つ哀しみと希望を,より味わい深いものにするという巧みなストーリィ・テリングによって描かれた作品とも言えるのではないでしょうか。

01/11/18読了

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