飛鳥高『細い赤い糸』講談社文庫 1977年

 「人が多すぎるんだ。お互に重なり合って生きてる。どんなことが起きるか分かりゃしない」(本書より)

 水道公団につとめる戸塚は,汚職事件から逃れるため,上司殺害を計画する。ところが殺害直前に上司は自殺してしまい,戸崎もまた何者かに撲殺される。そして同じ手口の殺人事件がつぎつぎと発生する。しかし現場に残された「細い赤い糸」以外に,被害者たちの間には何の繋がりも見いだせない。いったい犯人の意図は那辺にあるのか?

 物語は4つの章から成り立っています。水道公団の職員戸塚の殺害計画を描いた「第1章 谷間の人々」。ふたりの若者‐樋口細谷の,映画館の現金強奪を描く「第2章 暗い青春」。そして「第3章 歪んだ情事」では,不実な恋人を取り戻すべく,彼の上司の失脚を狙う国安敏子「第4章 蟷螂の斧」では,みずからの老いを意識する医師鳴瀬を,それぞれ主人公としています。
 そして各編の主人公は同時に,被害者でもあります。4人とも,頭部を鈍器状のもので殴られ殺害,殴られた跡にいずれも「細い赤い糸」が付着していることから,警察はこれらを同一犯人の仕業と判断,連続殺人事件と考えます。しかし4人の間にはまったく繋がりが見えてこない,彼らはなぜ殺されたのか,という「ホワイダニット」の作品です。
 作者は,その「なぜ」を物語の最後で結びつけるために,各章において伏線となる描写を丁寧にストーリィの中に埋め込んでいきます。それは,その描写がけっして不自然でない形で挿入されるよう,注意深くなされています。ですから,中島河太郎の「解説」に,「アンフェアという非難を甘んじて受けても」という評言が出てきますが,そういった感じは受けませんでした。4つの事件が結びついて真相が明らかにされた段階で,「あ,この描写はこういう意味だったのか」「この文章はこのことを指していたのか」と,むしろ感心するところが多かったですね。
 それともうひとつ感心したのは,その「構成の妙」です。被害者たちは,章の順番に沿って殺害されていきます。いや,殺害の順番に沿って章が並べられています。それは,事件を追う刑事たちが,しだいに真相へとたどり着くプロセスであり,真相に「より近い」事件の配列であるとも言えますが,それと同時に,読者に「ある錯覚」をもたらす仕掛けをも兼ねているように思います。その「ある錯覚」とは,近年,数多く見られる叙述トリックに共通するものでもあります(ネタばれ文章の時間的流れと事件の時間的流れの間に「ずれ」を作る叙述トリック)。それゆえ,4人の被害者の意外な関係が明らかになるラストのカタルシスがより鮮明になる効果を生み出していると言えましょう。
 そして読み終わって本編のタイトルを見返すとき,「細い赤い糸」が殺人現場に残されていた共通の物的証拠であるとともに,4人の被害者たちを結びつける「因縁」をも指し示していることに気がつきます。さらに冒頭で引用した文章にも表れている,巨大都市が持つ宿命的な「危うさ」にも響き合うものとなっています。もしかすると,わたしたちの日常生活とは,そんな「細い赤い糸」で支えられている脆いものなのかもしれません。

 本編の初出は1961年,翌年の第十五回探偵作家クラブ賞を受賞した作品です。今から40年前に発表された作品ながら,そのプロットの巧妙さ,ストーリィ・テリングの卓抜さにおいて,いまなおその輝きを失わなっていない作品といえましょう。たださすがに40年前だけあって,金銭感覚は現代とかなり違っていますが(笑)

02/04/21読了

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