赤川次郎『日の丸あげて』小学館文庫 2003年

 サブタイトルに「当節怪談事情」と名付けられたシリーズの第2集のようです。第1集『拒否する教室』は未読です。4編を収録しています。

 さて,シリーズ・タイトルにありますように,本集におさめられた各編は,いずれも「怪談」と「当節」とを巧みに結びつけた作品となっています。つまり「怪談」としては,きわめてオーソドクスな基本構造を持ちながら,そこに上手に「当節」=現代性を織り込んでいます。それを,巧みなストーリィ・テリングで,スムーズに描き出している点,デビュー以来,人気作家としての地位を保持し続けるこの作者の卓抜した力量が,十二分に感じ取れます。

 まず「第1話 失われた顔」は,「捨てられた女の怨み」という,まさに「手垢が付いた」といってもいいほどのモチーフを「核」としながらも,そこに「マスコミの無神経さ」という現代的な素材を結びつけています。「無神経でもかまわない」,あるいは「無神経でなければやっていけない」という,いわば「構造的な無神経さ」が,「怨み」をグロテスクに増幅させていくところに,本編のミソがあるのでしょう。1回の浮気を恋人に謝る誠意を持った主人公宏行が,その「怨み」にもっとも近しいにも関わらず,無事でいられるのは,その「無神経さ」から遠くにいるからなのでしょう。
 表題作「第2話 日の丸あげて」のストーリィは,悪意の噂を流すことで,ひとつの家庭を崩壊に追いやった男が,しだいにみずからも破滅していくという,これまたホラーの定番「人を呪わば穴二つ」です。しかし本編の「恐怖の核心」は,むしろ,その現代性にあります。いや,それを「現代性」と感じざるをえない「現代そのもの」にあるのかもしれません。とくにラスト・シーン,権力を利用したと思いこんでいた男が,その権力そのものによって押しつぶされるというシチュエーションは,背筋が寒くなるものがあります。
 地上げし損なった小さな土地で,戦争が繰り広げられているという,不条理劇のようなテイストを持っているのが,「第3話 路地裏の戦争」です。狂乱のバブル経済と根深い後遺症,そのメタファとしての「路地裏の戦争」と読み解くことができないでもありませんが,それがラストで,古典的な怪談モチーフに回収されていくところは鮮やかです。思わず「あ,なるほど,そういう話だったんだ」と膝を打ちました。
 最後の「第4話 恋するビデオテープ」の素材は,タイトルどおり,ビデオ。『リング』(鈴木光司)のヒット以来,ビデオは,ホラー作品では注目されるアイテムになっていますが(本作中にも「呪いのビデオ」なる語が出てきますし),本編を読み終わって感じたのは,むしろ古典的な「絵画怪談」的な手触りです。人が作り出した「光景」が,その人の手を離れて異形化していく,そして,本来その「光景」に属すはずのないわたしたちを招く,というモチーフは,絵から写真へ,そしてビデオへ,と,メディアが変わっても,ずっと受け継がれていくのではないでしょうか。

03/08/10読了

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