塩野七生『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』朝日学芸文庫 1993年

 16世紀前半,ヨーロッパ随一の経済力を誇るヴェネツィア共和国は,国家存亡の危機に立たされていた。東のオスマン・トルコ,西のスペイン・フランス。交易を糧とする商業都市国家に迫る,君主制を戴く領土的国家の影。ヴェネツィア元老院議員にして,国家の中枢機関「C・D・X(十人委員会)」の委員であるマルコ・ダンドロと,その友人でありヴェネツィア元首の庶子アルヴィーゼ・グリッティは,その渦中で,数奇な運命をたどることになる・・・。

 マルコ・ダンドロを主人公とするこの物語は,『銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件』『黄金のローマ 法王庁殺人事件』へと続く3部作の第1作です。塩野作品には一時期,かなりはまっていました。『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』『神の代理人』『海の都の物語』・・・。いまでも文庫本が出ると,こまめに買って読んでいます。ただこの3部作については,ちょっと読むのをためらっていました。ミステリ好きなわたしにとって,別の意味で好きな作家が書いた『××殺人事件』というのは,たしかに食指が動くのですが,その一方で,ミステリ作家でない彼女が書いた「ミステリ」は,もしかすると「わたしの好きな塩野作品」のイメージを壊してしまうかもしれない,という懸念があったからです(ここらへんが「微妙なファン心理」ってやつですか(笑))。しかし本屋で3部作がそろって並んでいるのを見て,気がつくと3冊まとめて買っていました。

 で,読んでまず思ったのは,これはミステリではない,ということです。たしかに物語の冒頭,ヴェネツィアの象徴でもある聖マルコ鐘楼から男が謎の墜死を遂げ,最後の方でその謎が解かれることになるのですが,それはこの物語のメインとは言えそうにありません(もっとも明かされた「真相」が第2・3作で絡んでくるようですが)。むしろこの作品で描かれているのは,ヴェネツィア元首の血を引く私生児でありながらも,トルコの首都・コンスタンチノープルで育ったアルヴィーゼの数奇な運命です。トルコ側からは「ヴェネツィア人」と呼ばれ,ヴェネツィア側からは「トルコ人」と呼ばれる彼は,その中途半端でマージナルな,それゆえ「自由」な立場ゆえに,トルコ軍の総督としてキリスト教国ハンガリーを攻め,みずからの「王国」の建設を夢見ます。友人マルコは言います「この特殊な『私生児』を嫡子たちが理解できなかったとしても,これまた当然である。なぜなら,アルヴィーゼは,帰属の明確な嫡子たちの,発想を超えたところで生きているからだ。あまりに正統で,はっきり色分けされた世界に慣れきっている嫡子たちが,とうてい考えもしないことを,アルヴィーゼは考え,実行することができた理由はここにある。」それは彼自身のアイデンティティの確立を求める行動だったのかもしれません。しかし彼の夢見た「王国」は,国家の非情な論理と歴史の気まぐれな偶然により潰えます。そのとき,この物語の副題「聖マルコ殺人事件」は,まったく別の意味を持って,改めて読者の前に提示されます。アルヴィーゼを殺したのは誰か? 彼を利用し,そして見捨てたのは誰か? この物語は「殺人事件」という言葉を借りた,国家と歴史に翻弄されながらも,力強く生きようとする人間を描いた歴史絵巻(の序章)なのでしょう。ですからミステリではありませんが,「看板に偽りあり」というわけでないようです。

 物語の前半は,登場人物(=歴史上の人物)の説明や,当時の社会状況・国際状況,風俗習慣などの描写が,しょうしょうくどいような気もしますが,これはしかたないのかもしれません。イタリア・ルネサンス期の歴史に詳しい読者は(わたしも含めて),そう多くはないでしょうから。ただ後半にはいって,アルヴィーゼとリディア,マルコとオリンピアのラブ・ロマンスを絡めながら,ぐいぐいと,しかし淡々とした文章で物語を展開させていくあたりが,やはり塩野作品の魅力なのだと思います。このマルコ&オリンピアは,第2・3作でもメインをはるようです。

 またところどころに挿入される,シニカルでいながら的を射た評言も,塩野作品の魅力のひとつです。一例を挙げておきます。

「幸福な男たちは,汚い手段も人道にはずれた行為も,非難する贅沢が許される」

97/07/18読了

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